山田正紀 闇の太守 御贄衆《おにえしゅう》の巻 目 次  第一章 誕生記  第二章 蟇目《ひきめ》  第三章 閻魔冥官《えんまめいかん》  第四章 剣士・秋月小次郎  第五章 鷽女《うそめ》  第六章 直面《ひためん》・殯《もがり》・蟄虫《ちつちゆう》  第七章 百舌《もず》・鵺《ぬえ》  第八章 贄塔九郎《にえとうくろう》   あとがき  第一章 誕生記    1 「まあ、きれい——」  そう澄んだ女の声が聞こえてきた。  越前一乗谷《いちじようだに》……  敦賀《つるが》から一乗谷へ入る山道である。  この北陸の地にも遅い春がようやく訪れ、山襞《やまひだ》を縫うようにして、一面、桃の花が咲きほこっている。山はあわあわとした桃の色に霞のようにつつまれて、たとえようもなく美しい。  その木《き》ノ芽峠《めとうげ》に近いあたりに、八|梃《ちよう》の輿《こし》がとまり、それを数百名の供侍《ともざむらい》が固めている。  いま声をあげたのは、輿を下ろし、垂《た》れをあげさせ、うっとり春の山を見ていた高貴な姫君である。  名は桐姫、——足利《あしかが》将軍を補佐する京都|管領《かんれい》・細川晴元の娘だった。  越前一乗谷の国主朝倉|義景《よしかげ》との婚礼が決まり、いまはその輿入れの途上だった。  桐姫はこの春で十五歳になる。まだ少女の初々しさを残しているが、その抜けるように白い肌、黒くつぶらな瞳は、天性の美貌を感じさせる。あどけないながらも、なんともいえぬ気品があり、ああ、いい奥方様だ、と一乗谷の供侍をよろこばせた。  なにぶん女中たちも含めて、女の多い行列であり、半刻(一時間)に一度はこうして輿を下ろし、休息しなければならない。  その度ごとに桐姫は春山ののどかな美しさに感嘆の声をあげるのだ。  天文二十二年(一五五三)、春——  やがて輿の垂れが下ろされ、また輿入れの一行は、桃の花びらが舞い散る山道をゆるゆると進んでいく。  物々しく、厳粛で、それでいてどこか華やいだものが感じられる行列だった…… 「なんの、桐姫様のほうがこの春山よりもはるかにお美しい。桃の花などものの数ではないわ——」  そう声をあげた者がいる。  はるか山道を見下ろす森のなかに、馬に乗った武士がふたり、行列を眺めていた。小者がひとり、これは藪《やぶ》のなかにうずくまるようにして、かしこまっている。 「のう、飯田殿、そうは思われぬか」 「お声が高くありませぬか、宋滴《そうてき》様」  もうひとりの武士がそう言ったが、本心からたしなめているのではないらしく、その顔が柔和にほころんでいた。 「奥方様となるべきお方を、その家臣たる者が盗み見ていたとあっては、いささか——」 「聞こえが悪いか」 「はい」 「なに、当家にお輿入れになる奥方様の身を案じて、陰ながらお護《まも》りしていたということにすればいい」  宋滴と呼ばれた武士はそう上機嫌に笑い声をあげた。 「それにしてもお美しい。お美しい奥方様ではないか。のう、飯田殿……」  宋滴、名は朝倉|教景《のりかげ》、——朝倉一族の武将で、三代貞景から四代孝景、当主義景まで、実に三代にわたって軍事、政治の補佐官をつとめてきた人物である。生涯に十二度出陣し、その知謀は諸国に鳴り響き、「越前に宋滴あり」と恐れられている。  このとき、すでに七十代もなかばすぎの老齢に達していたが、戦場で鍛えたその体にはいささかも衰えがない。いまなお炯々《けいけい》と眼光するどく、戦場を駆けまわるのを苦にしない体力を残していた。  宋滴と馬をならべている中年の武士は飯田仁右衛門、一乗谷の東にある山城をまかせられている朝倉家の大臣《おとな》であった。 「まずはこれで朝倉家も安泰、あとはお世継ぎがお生まれになるのを待つばかりであるわい」 「左様、一日も早く稚児《わこ》さまのお顔を見たいものです——」  宋滴の大声に、仁右衛門は微笑して、 「宋滴様はどうやら四代にわたって朝倉家にお仕えすることになりそうですな」 「それまでこの年寄りの寿命がもってくれればよいが……なに、もたせてみせよう。稚児さまのお顔を見るまでは、この宋滴、死んでも死にきれぬわ」  宋滴はなにか恍惚《こうこつ》とした表情になり、その老いた顔を、春の風にさらしていた。  と——  宋滴がふいに声をあげた。急に風が強まったように感じられた。  山の樹々がザアッと波うった。葉裏がそよいで、きらきらと山肌に光が走る。風に追いあげられて、桃の花びらがおびただしく舞いあがった。  馬が蹄を鳴らした。激しくいなないて、なにかにおびえたように後ずさった。 「これ、どうしたのじゃ。なにをおびえる?」  宋滴はとっさに手綱を引いて、馬を鎮《しず》めようとした。 「そ、宋滴様、あれを!」  そのとき背後から仁右衛門のかすれたような声が聞こえてきた。 「おお!」  宋滴の喉からも驚声が洩れた。  桃の花びらが輿入れの行列に襲いかかっていた。それはまさしく襲いかかるとしか形容しようのない光景であった。  ザア、と音をたてて、四方の山から桃の花びらが舞いあがり、それが上空でからまりあい、もつれあった。竜巻のようにクルクルと旋回し、それがやにわに崩れかかるようにして、輿入れの行列に落ちていったのだ。  桃色の雲につつまれた、だれもがそう思ったはずだ。おそらく輿を運ぶ者も、それを護衛する侍も、一寸さきも見えなくなってしまったにちがいない。それぞれに声をあげながら、襲いかかってくる花びらに右往左往していた。 「これは何としたことじゃ!」  宋滴はただ呆れるばかりだった。  これまで七十余年生きてきて、このような光景は見たことも聞いたこともない。たんなる椿事《ちんじ》というだけではなく、なにか凶兆めいた不吉なものさえ感じさせる。  桃の花びらはいよいよ激しく、吹きあげられ、舞い落ちていく。もちろん、もう先へ進むどころではない。行列は乱れに乱れ、輿が次々に地面に下ろされた。  そのとき——  桃の花びらを舞いあげるようにして、なにか黒いものがふいに山道に飛び出してくるのが見えた。  舞いみだれる桃の花びらにまどわされ、行列の供の者はほかに眼を配る余裕がない。それを阻止しようとする者はいなかった。  あっ、と宋滴たちが鞍のうえに伸びあがったときには、その黒いものは容赦なく桐姫の輿に突っ込んでいった。  グラリと輿がかたむいて、侍女たちの悲鳴の声が湧《わ》き起こった。  桃の花びらのなかに、桐姫の金糸のうちかけがフワリと舞った。たしかに桐姫の悲鳴の声も聞こえたようだった。それすら供の者たちはほとんど気がつかなかったようだ。  その黒いものは桐姫を背に乗せて、そのまま林のなかに駆け込んでいった。 「これはなんということだ。あれは猪《いのしし》だ。宋滴様、あれは猪でございます。桐姫様が猪にかどわかされた!」  仁右衛門がそう叫んだときには、 「来い、飛礫《つぶて》!」  宋滴はそう声をあげ、びしっ、と馬に一鞭を当てて、山道へ下る斜面を走りはじめていた。  さすがに戦場で何度も死地をくぐり抜けてきただけあって、宋滴はとっさの場合の判断に優れ、その動きも迅速だった。  馬の右首に顔をくっつけて、木々の枝に眼を打たれないようにしながら、疾風のように駆け抜けていく。とうてい七十なかばすぎの翁とは思われぬ鮮やかな身のこなしだった。  ザアッ、と葉擦《はず》れの音を鳴らして、飛礫と呼ばれた小者がそのあとを追った。こちらもまた藪《やぶ》のなかをほとんど転げ落ちるようにして、果敢に斜面に飛び込んでいった。  仁右衛門ひとりが遅れをとったが、これは仁右衛門が鈍いのではなく、あまりに宋滴主従の動きが速すぎたのだ。 「桐姫様が猪にさらわれた。皆の者、追え、追うのだ——草の根分けても、桐姫様をお探しするのだ!」  仁右衛門がようやく斜面を降りて、そう叫んだときには、桃の花びらはすでにあらかた舞い落ちていて、猪はもちろん、宋滴たちの姿も見えなくなっていた。  これはこの世のことか! 猪を追いながら、宋滴は何度も頭のなかでそう叫んでいる。  猪が人をさらうなどという話はこれまで聞いたこともない。馬を捨て、密生した樹々のあいだを息せききって走り抜けながら、宋滴は自分の眼が信じられない思いでいる。  ただ木漏れ日がわずかに射し込んでいるだけの小暗い森を、猪の黒褐色の姿がひたすら疾走していく。  宋滴はこれまで何度も猪を狩ったが、こんなにも大きい猪は見たこともない。どんなに大きくてもせいぜい五尺(約一・五メートル)足らずのはずであるのに、その猪は優に六尺あまりもあるように思われた。  それだけでもとうていこれが現実のこととは思われず、なにか悪夢めいたものに感じられるのだった。  ——こやつ魔物か。  いつもは沈着冷静なこの老人に似あわず、そんな狂おしい思いに駆られていた。  その背にしがみついた桐姫は、あまりのことに気を失いでもしたのか、グッタリしたまま動かない。ただその純白のうちかけが風に舞うのだけが、ときおりキラッ、キラッと鮮やかに光を波だたせていた。  宋滴主従は懸命に追いつこうとするのだが、なにしろ相手は猪のこと、その距離はひらいていくばかりだった。  いかに健脚を誇る宋滴もしだいに足がふらつき、息が苦しくなってきた。  飛礫と呼ばれた小者は、まだ若者といってもいい歳《とし》だったが、これもやはり苦しげに息を弾ませている。 「飛礫、石を打たぬか!」  宋滴はたまりかねてそう叫んだが、 「無理でございます。猪ばかりか、姫様も傷つけてしまいます」  飛礫は息も切れぎれに言った。  宋滴主従は歯を食いしばり、よろばうようにして、森を走った。——が、しょせん、人間が猪に追いつけるはずがなかった。  枝を折り、笹の葉を舞いあげながら、猪はひた走りに走り、見るみる宋滴たちの視界から遠ざかっていった。  ついにはそのまま森の奥に桐姫を連れ去ってしまうかと思われたが……  ふいに枝葉を鳴らし、宙を翔《か》けるようにして、樹からふわりと舞い下りてきた影があった。  その影は猪の背に飛び下り、毬《まり》のように大きく弾んだ。とっさに桐姫の体を抱いて、そのまま横ざまに地面に転がったのだ。 「おお!」  それがまだ年端《としは》もいかぬ子供だと気がついて、宋滴は眼をカッと見ひらいた。  おそらくまだ五、六歳。裾みじかの着物を着て、まげも結っていない。もちろん、まったくのはだしだ。  そんな汚らしい子供が、樹のうえから猪の背に飛び下り、桐姫を助けて、ゴロゴロと地を転がったのである。歴戦の武士をもしのぐ、たいへんな豪胆さだった。 「童《わつぱ》、でかした!」  宋滴が思わずそう声をかけると、子供は立ちあがり、ニコッと笑った。  泥に汚れた、子供ながらもいかにもふてぶてしい面構《つらがま》えだったが、フッと宋滴の胸をつくような繊細なものが感じられた。高貴さと言ってもいいかもしれない。ただ山野を駆けまわっているだけの童には見えなかった。  次の瞬間、子供はサッと身をひるがえし、藪のなかに飛び込んでいった。  宋滴は反射的にその子供のあとを追いそうになり、かろうじて踏みとどまった。子供のことが気にかからぬではなかったが、いまはなにより桐姫の身が案じられる。  さいわい桐姫の身体に怪我はないらしい。草のうえに、その優美な肢体を横たわらせ、ピクリとも動かないが、これは失神しているだけのことで、心配するほどのことはないようだ。 「やれ、ありがたや」  さすがに安堵のあまり、宋滴は太い息を吐くと、そのまま草のうえにペタリと坐りこんでしまった。  そのとき——  森の奥から鉄砲の音が聞こえてきた。ずどーん、と腹に響くような銃声は、陰々と余韻を残し、いつまでも森をざわつかせた。  宋滴はいったん落ち着けた腰を、また浮かして、太刀に手をやった。  飛礫《つぶて》もすばやく飛びすさり、体を沈めると、腰の袋に手を突っ込んだ。その袋のなかには均質に磨いて、重さをそろえた石が幾つも入っていて、飛礫はこれを瞬《まばた》きするうちに何個も飛ばすことができた。  ざわざわと茂みが揺れ、まず大猪の体がそこからドサリと投げ出される。猪は見事に首を射つらぬかれて、その毛皮を朱に染めていた。  そして、その茂みからゆっくりと若い男が姿を現した。  袖無《そでな》し羽織《ばおり》に、染め革の裁着袴《たつつけばかま》を穿いて、手にはまだ薄く煙を吐いている鉄砲を下げている。  旅の武士らしいが、髪はきれいに束ねられ、顔も汚れておらず、むさくるしさは感じさせなかった。 「いや、ご無礼をつかまつった」  武士はやや甲高《かんだか》い声でそう言い、 「いきなり猪が飛び出してきたので、つい前後の考えもなしに、これを撃ってしまいましたが、ご老人にはさぞや驚かれたことでござりましょう」 「そのようなお気づかいは無用に願う」  宋滴はそう首を振った。  顔をしかめている。  ほんとうなら、猪を仕留めたこの若い武士に感謝しなければならぬはずだが、どうしてか自分が不機嫌になるのを覚えた。なんとはなしに、この若い武士にうさん臭いものを感じている。 「一乗谷の朝倉教景様とお見受けいたす」  宋滴の気持ちを知ってか知らずか、若い武士はいちだんとそう声を張りあげ、 「拙者は諸国|流浪《るろう》の身にて、御門十兵衛《みかどじゆうべえ》と申す者でございます」  そこでどういうつもりか若い武士はニヤリと笑った。その一重瞼《ひとえまぶた》の涼しげな眼がそのときだけ奇妙に酷薄な印象を帯びた。 「以後、お見知りおきのほどを——」    2  越前一乗谷……  守護所の府中や福井平野から数里の距離をおいて、しかも山でへだてられ、美濃《みの》街道をおさえることによって、大野郡方面にも眼を配ることができる。  その適度な広さとあいまって、戦国大名が居をかまえるには、まさに絶好の地勢であった。  朝倉の代をかさねるにつれ、国内の政治は安定し、若狭《わかさ》、近江《おうみ》、美濃などの隣国にも出兵して、着実に戦国大名としての力をたくわえていった。  やがて一乗谷には、高名な学者や芸術家が頻繁に訪れるようになり、ここに我が国有数の文化都市が築かれたのである。  朝倉義景は将軍義輝から「義」の字を頂戴して、破格の高官である左衛門督《さえもんのかみ》を授けられた。  将軍家における地位が高まったばかりではなく、朝廷に対しても多額の献金を行い、京都の貴族たちとの親交も深まっていった。  足利将軍を補佐する京都|管領《かんれい》・細川晴元の娘との婚礼が決まったのもそのためだったのだ。  婚儀は三日ものあいだ続けられた。  桐姫が猪にかどわかされたことは朝倉家の人々を驚かせはしたが、それもすぐに奪いかえしたとあって、むしろ猪さえも惑わすほど美しい姫君だ、とめでたく取り沙汰されることになったようだ。  事実、三日めになり、桐姫が純白の衣装から色物にかえて、いわゆる色なおしをしたときには、その輝かんばかりの美しさに、婚儀に参列した者たちはみんな息を呑んだという。  やがて婚儀もつつがなく終わり、そのあいだ浮きたっていた朝倉の領民たちもしだいに鎮まっていき、また一乗谷はいつもの落ち着きを取り戻《もど》した……  婚儀が終わってから十日あまりの後。  宋滴はいつものように飛礫《つぶて》をともなって、宇坂の庄、一乗谷教寺村に出かけた。  富田《とだ》五郎左衛門という武士を訪ねるつもりだった。  一乗谷の武家屋敷はすべて周囲に小土塁をめぐらし、道に面して二間足らずの門を開く造りになっている。  その門をくぐると、案内を乞うまでもなく、庭から五郎左衛門の声が聞こえてきた。  飛礫を外に待たせ、塀中門から主殿のほうに抜けると、そこの前庭で、ひとりの武士がしきりに木刀を上段から振り下ろしているのが見えた。  まだ若い、たくましい武士だ。片肌ぬぎになっていて、その肩の筋肉が汗に濡れ、きらきらと光っていた。鋭い気合を発して、木刀を振り下ろすのを繰り返している。ブン、と音をたて、木刀は空を切り、その度ごとにその肌から汗が飛び散るのが見えた。  宋滴はしばらくそこに立ち、五郎左衛門が木刀を振り下ろす、切れのある身のこなしに見惚れていた。  五郎左衛門の祖父は富田九郎左衛門といい、中条流の直系である富田流の祖として、名を残している。  いまは九郎左衛門の子、治部左衛門が富田家の主であるが、いずれはその嫡男である五郎左衛門が家を継ぐことになっていた。  天文年間の前後から、武士は両刀を腰にするのが一般的な風潮になってきたため、それまでの大太刀が廃《すた》れ、いわゆる中太刀、小太刀がもてはやされるようになった。その中太刀、小太刀の使用に、独自の工夫をあみだしたのがこの富田流で、五郎左衛門は祖父九郎左衛門をはるかにしのぐ剣技の持ち主といわれている。  ころあいを見はからい、これ、五郎左衛門よ、宋滴はそう声をかけた。 「あっ、宋滴様、これは気がつきませず、とんだ不調法をいたしました」  五郎左衛門は慌てて木刀を引いた。 「なに、声をかけなんだわしが悪い。それより、体の汗を拭《ふ》かぬか。おぬしにすこし頼みたいことがあるのだ」 「拙者に頼み? どのようなことでござりましょう?」 「まあ、よい、まず汗を拭かぬか。話はそれからのことだ」 「は」  五郎左衛門は声をあげ、水を持ってこい、と家の者に命じた。  すぐに子供がひとり、体に余るような大きな桶を持って、水を運んできた。  その子供を見て、宋滴はわずかに眼を見ひらいた。  それは猪の背中に飛び乗り、桐姫を助けたあの童《わつぱ》だったのだ。あのときよりはよほどこざっぱりとした姿をしていて、履《は》き物なども履いているが、それがあのときの子供であることは間違いなかった。  子供は宋滴の顔を見てもそ知らぬ顔をしている。これは桐姫を助けたことを主に告げてはいないな、宋滴はそくざにそう察して、そのことは五郎左衛門には黙っていることに決めた。  水桶を運んで、門の外に立ち去っていく子供を追う宋滴の視線に気がついたのか、 「あれは近在の家の者で、縁あって当家であずかっている子供でございます」  五郎左衛門がそう言った。 「ほう、名は?」 「小次郎と申します」 「なかなかおもしろい面がまえをしている」 「はい、拙者も見所があるように思い、すこし仕込んでみようかとも考えたのですが」 「駄目か?」 「いけませぬ」  五郎左衛門は苦笑を浮かべ、 「富田流に押しこめるには、あの子供はいささか奔放に過ぎるようです。よしんば一度はわが流派に押しこめても、いずれはその殻を打ち破って、自分の気儘《きまま》に生きるようになるでしょう」 「うむ、そんなものかな」  宋滴は小次郎の顔を脳裏に思い浮かべた。子供ながら不敵な面がまえをしていて、なるほど、たしかに剣の一流派にちんまり凝りかたまるような器《うつわ》ではなさそうだった。  汗を拭き終わり、袖を入れると、五郎左衛門は庭から主室に宋滴を案内した。  宋滴の頼みで人払いをしたのち、 「お話の儀はどのようなことでござりまするか?」  あらためて五郎左衛門がそう尋ねてきた。 「うむ」  宋滴はうなずき、 「御門《みかど》十兵衛の名は聞きおよんでいような」  そう反対に聞き返した。 「はい、奥方様を猪からお救い申しあげた、というので、在《ざい》ではたいそうな評判でございますそうな。いましばらくは諸国を見てまわりたいというので、仕官の勧めを断り、いまは長崎村の称念寺《しようねんじ》に身を寄せている、と聞きましたが——」 「その御門十兵衛だが、おぬしの力でなんとかして、この一乗谷から追い払えぬものだろうか」 「なんと仰せられます」  さすがに五郎左衛門は驚いたようだった。 「御門十兵衛は奥方様をお救いした、いわば朝倉家の大恩人、それを追い払えと申されるのか」 「年寄りのとるにたらぬ取り越し苦労かもしれぬ。いや、そうであってくれればよい、とわしもそう思わぬでもない……」  宋滴は暗い顔をして、そう呻くように言った。 「だが、わしはなんとのう、あの者をこのまま一乗谷に置いておくのが心配でならぬのじゃ。あれは朝倉家に仇《あだ》をなす、いや、天下《てんが》に仇をなす者であるような気がして、それがどうにも心配でならぬのだ」  坂井郡長崎村称念寺……  この時宗の念仏道場の庫裏《くり》の一隅を借り、そこに御門十兵衛は滞在している。  しばらくは僧侶や百姓の子供らに読み書きを教えたい、というふれこみだったが、べつにそんなこともしていないようだ。  人も訪ねてこず、めったに外出することもなく、なにをしているのか、十兵衛は一日中ひっそりと庫裏のなかで暮らしていた。  いや、ひっそりと暮らしているように、称念寺の僧たちは思い、また十兵衛もそう見せかけていたのだが……  その僧たちも、深夜、この庫裏のなかでくりひろげられている光景を見れば、この十兵衛がとんでもない食わせ者であることを知ったにちがいない。  ……短檠《たんけい》のほの明かりのなかに、白い女体がなまめかしく浮かびあがっている。 「これはどうじゃ?」  十兵衛の含み笑いの声がそう聞こえると、魂を飛ばせるような、女のすすり泣きの声がそれに重なった。 「声をあげよ。閨《ねや》での女の声は男にはなによりの馳走であるわい。恥ずかしがらずともよい。心ゆくまで声をあげるがよい」  十兵衛のそれなりに引き締まった体が、女の細く白い裸身にかさなり、その筋肉が波うつように微妙な動きを見せる。その度に女のすすり泣きの声は高まっていき、体をくねくねとうねらせるのだ。  十兵衛の愛撫は実に丹念で、おそろしくその時間が長い。  女の肌を撫《な》でさすり、乳首をいじり、その耳たぶを軽く噛《か》む。その舌がなにか十兵衛とは独立した、べつの生き物ででもあるかのように、ペシャペシャとうごめいて、それがゆっくり女の全身を這《は》いまわる。やがては股のあいだに頭を突き入れて、恥知らずにもその秘裂を舐《な》めはじめたようだった。  ああ、ああ、女の声はますます高く、獣めいたものになり、ついには耐えきれなくなったのか、十兵衛の頭を上から押さえつけて、激しくそれを揺さぶった。 「おお、よしよし、そんなに欲しいか。いまくれてやるぞ。たんとくれてやるわい」  十兵衛は笑い声をあげ、上体を伸びあがらせると、女の体に覆いかぶさり、その身をつないだ。  女がみじかく、鋭い声を放った。十兵衛が体を動かすにつれ、短檠の炎が揺れ、壁に落とした影をゆらゆらと伸び縮みさせた。  やがてすべてが終わり、十兵衛はゆっくりと立ち上がった。  女は快楽の余韻に、陶酔しきったまま、夜具のうえに、あられもなく裸身をさらけだしている。ほとんど失神しているのか、その眼を閉じていて、ただ息だけが笛を鳴らすように荒かった。  女はまだ少女といってもいい年頃に思われた。その成熟しきっていない細い裸身に、薄く血がさしているのが、なまめかしくもあり、なにか哀れなようにも感じられた。  だが、十兵衛はそうした感傷とは無縁な男のようだった。女はそのままにして、自分だけ手早く身仕度をととのえると、隣室に入っていった。  そこにひとりの武士が坐っていた。まだ、さほどの歳でもなさそうなのに、見るからに病弱そうな、青白い顔をした男だった。  その男はうつむいて、袴の股をつかんで、全身をワナワナと震わせていた。十兵衛に向けた顔が、げっそりと窶《やつ》れはてて、その眼は真っ赤に血走っていた。  それも当然のことだった。この男は鞍谷《くらたに》の庄の城主で、名を鞍谷|刑部《ぎようぶ》といい、いま隣室で十兵衛に犯された娘の実の父親なのだ。父親たる者、娘が犯される声をあまんじて聞かねばならぬのは、地獄の業苦《ごうく》にもまさる苦しみであったに違いない。 「もう、娘御をお連れになっても結構でござる。この次は、左様、二日の後ということに致しましょうか」  そのまえにドッカリと坐りこんで、十兵衛が平然とそう言うのに、 「十、十兵衛、このようなふらちな真似をいたして、もし、うぬの言葉にいつわりがあるようであれば、わしはそのときには、そのときには……」  鞍谷刑部は懊悩がきわまったような声を苦しげに振り絞った。 「私をお斬りになられますかな」  十兵衛はニヤリと笑って、 「いや、ご案じめされるな。かまえて十兵衛の言葉に嘘いつわりはござりませぬ。思いのほか娘御はお覚えがよろしゅうござる。十兵衛、ほとほと感服つかまつった。これなら、鞍谷様の悲願がご成就になられるのも、それほど遠い先のことではございますまい」 「わしの家柄は斯波《しば》家の血筋を引き継いでいる。斯波|義廉《よしかど》様の直系で、もともとは朝倉の主家に当たる血筋なのだ。それを敬うどころか、朝倉家は犬に餌でも与えるように、微禄《びろく》を投げてよこし、わしを飼い殺しにするつもりでいるのだ……」  鞍谷刑部は唇を震わせ、なにか熱に浮かされたうわ言のようにつぶやいた。 「そのようなことがあってよいものか。そのような仕打ちに耐えられようはずがない。わしには斯波の血筋を継ぐ者の誇りというものがあるのだ」 「私にも鞍谷様の無念のお気持ちは分かるような気が致します。それがどのような御仁《ごじん》であれ、いやしくも男であるなら、だれもが誇りを持ちあわせている道理でございますからなあ」  どこまで本気なのか、十兵衛はニヤニヤと笑いながら、そんなことを言った。  そのとき——  油の火がジーッとつばを鳴らすような音をたてた。風もないのに、灯明の明かりがゆらりと揺れ、ふいに座敷の隅の暗がりが膨れあがったように感じられた。一瞬、なにか影のようなものが十兵衛の顔をよぎった。  どうしたのか、いつもは傲岸不遜《ごうがんふそん》なこの男がギクリと顔色を変え、うろたえたようにその場に立ち上がった。そして灯明の死角になっている暗がりに顔を向けた。 「は、仰せのとおりに——ただちに罷《まか》り越します……」  一体、誰《だれ》に話しているつもりなのか、十兵衛はそう暗がりに向かって言った。なにかにおびえているような、かすかに震えを帯びた声だった。  鞍谷刑部はあっけにとられている。独言《ひとりごと》をつぶやいているとしか見えぬそんな十兵衛を、ただ不安げに、疑わしげにまじまじと見つめるばかりだった。    3  月がかかっている。春のおぼろ月夜、霞のように光がたちこめるなかに、ぼんやりと一乗谷が浮かびあがっていた。なにかふしぎに気だるく、遠い気持ちにさせられるようなそんな夜だった。  ここは朝倉義景の住まいである。  ここ何年か、朝倉領の政治は安定し、他国から攻めこまれたこともないが、さすがに戦国大名の屋敷だけあって、それなりに構えはしっかりしている。  屋敷の三方に濠《ほり》と土塁をめぐらし、土塁の隅には隅櫓《すみやぐら》が設けられてあって、いざという場合にそなえ、土塁のうえには武者走りも築かれているようだ。屋敷内のいたるところにかがり火が燃やされ、警護の者が詰めているのはいうまでもない。  ただ西の土塁に沿って、射場と的の置かれた※[#「土へん+朶」]《あずち》があり、ここにだけは警護の者もいなければ、かがり火も焚《た》かれていない。  その人影は、あらかじめそのことを調べておいたらしい。朝倉館に近づくと、ためらわず西の土塁にまわり、ひっそりと濠のそばにうずくまった。  朝倉館の気配をうかがっているらしく、しばらくはコソとも動こうとしない。  そのとき雲が流れていき、月が顔を覗かせた。  月の光のなかに浮かびあがったのは、——御門十兵衛だった。  ときおり冷酷な印象を見せることはあるが、いつもの十兵衛はまずは美男といっていい顔だちだ。それがいまは緊張しきって、別人のように凄絶な表情になっている。  緊張するのも当然だった。こともあろうに領主の館に忍び入ろうとしているのだ。警護の者に見咎《みとが》められでもしたら、まず間違いなく殺されてしまう。  月が出ているといっても、その光はとぼしく、土塁と濠は闇のなかに沈んでいる。  十兵衛は闇に眼が慣れるのを慎重に待っているようだ。あたりに人がいないのを十分に見きわめたうえでないと、動き出すつもりはないらしい。——この男はいかにも狡猾《こうかつ》で、用心深かった。  だが……  そんな十兵衛も、闇のなかにもうひとりの男がうずくまっているのには気がつかなかったようだ。  その男は土塁の道をへだてた茂みのなかに身をひそめていた。  石のようにピクリとも身を動かさずに、完全に気配を絶っている。よしんば十兵衛の視線がその男のうえを過《よぎ》ったとしても、そこに人が潜んでいることには気づかなかったに違いない。  飛礫《つぶて》だった。  この男は歳に似合わず老成した顔だちをしている。小柄だが、肉の引き締まったその体つきは、精悍《せいかん》そのものだった。  十五のときから宋滴の身辺にいて、どんなときにも絶対に離れることがない。主が馬を駆るときは、自分は走って、その後につきしたがう。宋滴に対して絶対的な忠誠心を持っていて、主が死ぬときは自分も死ぬときだ、とそう心に決めていた。  いまも宋滴の命で、御門十兵衛をひそかに見張っているのだった。  十兵衛が小石を拾うのを見て、飛礫は闇のなかでニヤリと笑った。  十兵衛は小石を投げ込んで、濠の深さを確かめようとしているらしい。そのことに気がつき、ちょっとした悪戯を思いついたのだ。  飛礫の右手がすばやく腰の革袋のなかに入れられた。石を取り出すと、それを人差指と中指のあいだに挟んで、スッとその手を頭上にかざした。  十兵衛がポイと小石を濠に放り込んだ。  その瞬間、飛礫はフッと息を吐くと、手首を軽くひねるようにして、自分も石を飛ばした。  飛礫はとりわけ視力に優れ、三十間(約五十五メートル)あまりも離れた雀をしとめるだけの腕を持っている。たとえ闇のなかであっても、十兵衛の石をとらえるのはたやすいことだった。  カチッ、耳を澄ませば、そんな石のぶつかりあう音が聞こえたかもしれない。が、水音が返ってくるのを待っていた十兵衛は、その音には気がつかなかったようだ。  十兵衛の放り込んだ石は、飛礫の石に弾かれ、濠を越えて、はるか土塁のほうに飛ばされている。もちろん水の音が聞こえてくるはずはなかった。  濠の草のうえに落ちたとでも思ったのか、そのときにはまだ十兵衛はさしてそのことを不審には感じなかったようだ。  また石を拾い、それを濠に放り込んだ。すかさず飛礫の右手がひらめき、それもまた正確に弾き飛ばしている。  やはり水の音は聞こえてこない。さすがに今度は十兵衛も異常に気がついたらしく、慌てて飛びすさると、体を低くして、闇のなかを透かし見るようにした。  もちろん飛礫に抜かりがあろうはずはなく、姿を見られるような失敗を犯さない。ますます体を低くして、闇のなかに自分の気配を絶った。 「だれかいるのか」  十兵衛はそう囁くように声をあげたが、その声は震えていた。  飛礫の投げる石は速く、よしんば昼間であっても、それを見きわめることは誰にもできない。十兵衛にしてみれば、自分の投げた石が闇のなかに消えうせたような、そんな怪異な思いにとらわれたに違いない。 「だれかいるのか。そこにだれかいるのか」  十兵衛はあいかわらず震える声で、そう囁きつづけている。  十兵衛が思いのほか臆病《おくびよう》であるのを知って、飛礫はニヤニヤと笑っている。  とるにたらない男ではないか、そう相手をみくびる気持ちがあった。いつもは主人の判断に絶対の信頼を持っている飛礫だが、このときばかりは、宋滴様は少しこの男を買いかぶりすぎているのではないか、そう思わないではいられなかった。  だが……  十兵衛がすっと闇のなかに立ち上がったのを見たとき、飛礫の唇からそのニヤニヤ笑いが消えた。  その瞬間、十兵衛がまったくの別人と化したかのような驚きにみまわれたのだ。どこがどう違うのか、飛礫にもそれを具体的に指摘することはできなかった。  ただ、ふいに十兵衛の体が一回りも二回りも大きくなったような、そんな錯覚にとらわれた。  それまで飛礫の投げる石にたわいもなくおびえていた十兵衛はあとかたもなく消え失せていた。いまそこに立ちはだかっているのは精気に満ち、圧倒的な存在感を持った、まったく別の十兵衛だった。 「つまらぬ遊びはよさぬか。このうえ石を投げるようであれば、うぬの体を八つ裂きにしてくれようぞ——」  十兵衛がそうしゃがれた声で言った。  飛礫は十兵衛の視線をひしひしと体に感じていた。たしかにその眼は闇を透かして、正確に飛礫の姿をとらえているようだった。  ——どうして、わしがここに潜んでいることが分かったのか!  飛礫はこの世のものならぬ妖異現象に接したような気がしている。全身に鳥肌が立ち、背筋を冷たいものが駆け抜けていくのを感じた。  いつもは滅多にものに動じないこの男が、ガクガクと歯を鳴らせて震えていた。  と、——  飛礫は眼を瞬かせた。自分の眼の錯覚かと思ったのだ。が、そうではなかった。  月の光に浮かんでいた十兵衛の影が、ふいに膨れあがり、ゆっくりと伸びはじめる。影は蠕動《ぜんどう》動物のようにうごめき、地を這い、濠を越えて、土塁に達した。  その影が土塁のうえにしだいに濃密に凝集していった。濃く、黒く、やがてそれがはっきり人間の形をとる。その人影が怪鳥のようにふわりと宙に浮き、——そして、そのまま闇のなかに消えてしまう。  あとにはただ月の光に映えて、土塁が冴えざえと浮かびあがっているだけだった。  操《あやつ》りの糸が切られた人形のように、十兵衛がヘタヘタと地面に坐りこんで、ゆっくり頭から沈んでいった。完全に意識を失っているようだった。  が、いまの飛礫は十兵衛どころではなかった。  その場に呆然と立ちすくんで、いま見たものが何だったか、しきりにそれを自分に問いかけていた。どんなに狂おしく自問しても、飛礫にそれが分かるはずはなかった。  もしかしたらあれは妖しい月の光がつむいだ幻影ではなかったか?  朝倉義景は新妻の桐姫と寝所にいる。  まだ春になったばかりで、夜風は冷たいのに、若いふたりの体は汗ばんでいる。  十五歳になったばかりの桐姫の体はまだ義景の愛撫に応えるほど熟れていない。行為のあいだ、眼を閉じ、わずかに眉のあいだに皺を寄せるようにして、ジッと耐えている。  義景にはそんな桐姫が愛しくてならない。その典雅ではかなげな表情、血の色が透けるように白い肌、細くしなやかな体、なにもかもが好ましかった。さすがに京都管領・細川晴元の娘だけはある、そう考え、この婚姻に満足していた。  朝倉義景は後世、文弱だったと評され、事実、和歌を学ぶのに、わざわざ二条派の師を呼ぶほどであったが、さすがにこの時代の戦国大名だけあって、はだかになると逞しい。  若いだけあって、女の体がめずらしくもあり、そのことにおよそ倦《う》むということがなかった。自分でも呆れるぐらいに、美しく繊細な新妻の体に溺れきった。  この夜もやはり、義景は桐姫と褥《しとね》を共にしたのだが……  義景はフッと我にかえった。  我にかえった、そう表現するしかない。いつものように寝所を訪れ、桐姫が恥じらいをこめて、自分を迎えてくれたのまでは憶えているのだが、そのあとプッツリ意識が途切れている。それから自分がどうしたのか、まったく記憶していないのだ。  義景は慌てて寝具のうえに身を起こした。そして自分の横で、桐姫が静かな寝息をたてて眠っているのを呆然と見つめた。  これも腑に落ちないことだった。桐姫はどんなときにも義景よりさきに眠りこんで、自分の寝顔を夫にさらけだすような、そんなつつしみのないことはしないはずだった。  ——これはどうしたことか。  義景がボンヤリと自分の記憶をたどろうとしたそのとき……  ふいに短檠《たんけい》の火がゆらりと揺れて、かすかに黒い煙をたなびかせた。  いや、かすかな煙に思えたのだが、それが暗雲が拡がるように、にわかに寝所に膨れあがっていったのだ。  あまりの怪異さに度胆を抜かれ、義景は声をあげることもできずに、ただそれを呆然と見つめているばかりだった。  もわもわと膨れあがった黒い煙は、やがてはっきり人の姿をとり、それが一転して影のようになると、ボウと壁に浮かびあがった。 「お美しい奥方様でござるな。まずはこの是界《ぜかい》、めでたきことと、祝《ことほぎ》の辞を述べさせていただこうか」  いつのまにか、そこにはひとりの老人が坐っていた。たしかに老人ではあるが、その顔の肌は油に浸したように、黒く精気にあふれ、唇が濡れぬれと赤かった。どこか人間ばなれした、人外から訪れてきたような、異様な雰囲気を持ちあわせた老人だった。  髪を総髪にし、鶯茶《うぐいすちや》の道服《どうふく》のようなものを着ている。その手に持っているのは、どうやら柄が三尺(約九十センチ)ばかりの小《こ》薙刀《なぎなた》のようだが、なにやら義景には見当もつかない獣の革のようなもので、その刃が包まれてあった。  どうしてか義景はこんな老人がいきなり寝所に現れたことを、さほどふしぎには感じていなかった。頭のなかに霞がかかったようで、判断力が完全にマヒしてしまっている。  ただ、この者はぜかいと言ったな、自分のことをぜかいと名乗ったな、そう痴呆のように頭のなかで繰り返すのみだった。  なぜこのとき義景が人を呼ぶ気にならなかったか、後から考えれば、それも自分でも理解できないことだった。 「是、界と書く。善、界と受けとっていただいてもさしつかえはござらぬ——」  是界と名乗った老人は、義景の考えを読み取ったようにそう言い、筋ばった指で空に字を書いた。 「その是界とやらがわしに何の用じゃ?」  義景はようやくそう声を出すことができた。その声がなにか自分のものではなく、どこか遠くから響いてくるように感じられた。 「父君からの代の当家とのお約束を果たしていただくために——」  是界は陰々とした声でそう言った。 「あなた様と奥方様とのあいだにお生まれになる稚児《わこ》様を頂戴いたしたく、かく参上つかまつった」    4 「あれでございます」  飛礫がそう指を差したのを受け、 「うむ、たしかに気を失っているようじゃな」 「そのようでございますな」  宋滴と富田五郎左衛門がそうやりとりを交わした。  地面に崩れた十兵衛をどうしたものか、また確かに怪しい影のようなものが朝倉館に侵入したようでもあり、飛礫はどうにも自分ひとりでは判断に窮して、宋滴のもとに知らせに走ったのだ。  さすがにこうしたときの宋滴の判断は早い。すぐに五郎左衛門を呼びに人を走らせ、自分もまた飛礫とともに、こうして朝倉館に駆けつけてきたのだった。  あれから半刻あまりも過ぎているのに、まだ十兵衛は地面に坐りこんだまま、ピクリとも動こうとはしない。そのうなだれた姿は、月の光に長く影を曳《ひ》いて、まるで石地蔵かなにかのように見える。 「とにかく声をかけてみよう。ここでなにをしているのか、まずはそれを問いたださねばなるまいよ」  宋滴がそう言って、足を踏み出しかけたそのとき——  地面に尾を曳いた十兵衛の影が、ふいにゆらゆらと揺れはじめた。十兵衛はうずくまったまま、ただその影だけが揺らいで、しだいに膨らみはじめたのだった。 「おお!」  宋滴、五郎左衛門ともあろう者が、さすがにこの怪異には愕然《がくぜん》とし、身を震わせて、その場に立ちすくんだ。  飛礫から影の話を聞かされたときには、二人ともなにを馬鹿な、と半信半疑だったのだが、その怪異現象を現実に目《ま》のあたりにしたいまとなっては、飛礫の話を信じぬわけにはいかなかった。  影はしだいに厚みを増していき、それがベロリと薄紙を剥がすように地面から離れると、ゆらりと起き上がり、—— そしていつのまにか十兵衛の背後に、ひとりの老人が立っているのだった。 「これ、起きよ。起きぬか、十兵衛——」  その老人はそんなことを囁きながら、十兵衛の首筋にその骨ばった指を這わせた。しゃがれた、どことなく人を嘲笑するような響きを感じさせる声だった。 「越前の宋滴様ともあろうお方がわざわざおいでになられているのだ。そのように眠り惚《ほう》けていたのでは、礼を失することになろうぞ」  うむ、十兵衛はそんな呻き声を洩らしたようだった。わずかに体を身じろぎさせる。  そして、おもむろに首をあげた。自分でもなにがどうなっていたのか、よく憶えていないらしく、ただ眼を瞬《しばたた》かせて、キョトンとあたりを見まわしている。愚かしい顔つきになっていた。  そのときになってようやく宋滴たちの姿に気がついたらしく、ヒッ、というような声をあげて、その場に飛び上がった。  だが、宋滴はもう十兵衛のことなど気にかけてもいなかった。  その老人の姿にはかすかに見覚えがあるような気がして、それが誰だったか、懸命にそのことを思い出そうとしていた。  ——わしはたしかにこの者と会ったことがある。あれはいつのことだったか?  宋滴はそうしきりに自分自身に問いかけている。  ゆらゆらと記憶の奥深い襞《ひだ》のなかからたちのぼる影のようなものがあり、それが四十年もの歳月をへだてて、眼のまえにいる老人の姿に重なった。  あのとき宋滴はまだ三十代の壮健なころで、そしてこの老人はやはりいまとおなじように、ずいぶん年老いて見えたものだった。  そこまで考え、宋滴は自分の体がフッと地の底に引きずりこまれるような、そんな目眩《めまい》めいた感覚にみまわれた。そうだとすると、一体、この老人はいま何歳になるのか! 「お懐かしゅうござる、宋滴殿。以前にお会いしたのは、あれはたしか永正九年(一五一二)、先代の孝景様が朝倉家をお継ぎになられたときのことでしたな——」  老人がそう笑い声をあげるのに、 「ううむ、是界か……たしか、おぬしは是界と申したのう」  宋滴は腹の底からしぼり出すような呻き声をあげた。 「左様、是界でござるよ。あれから四十年、よう憶えていて下された」 「是界」 「なんでござる?」 「おぬしはなにをしにこの一乗谷に舞い戻ってきた。よもや、おぬし——」 「そのよもやでござりまするよ。朝倉四代孝景様はたしかにあのときお約束なされた。ご自分から三代のちのお孫様、そのお孫様をたしかにわしにくださると、そう約束なされた。よもや宋滴殿、そのことをお忘れではありますまいな……」 「ば、馬鹿な! 朝倉家の大切なお世継ぎを、なんでおまえのような化物に渡したりするものか。孝景様がなにを約束なされたにせよ、すでに四十年ものまえのこと、とっくに空証文になり果てているわい」 「朝倉義景様もそう仰せられた。父君の孝景様がなにをわしと約束したにせよ、そのようなものに縛られる自分ではない、そう仰せられた。稚児《わこ》様をこちらにお渡しになるつもりはない、そうきっぱり申されたわ」 「それが当然じゃ。化物、成敗されぬうちに、とっとと一乗谷を退散するがよい」 「いけませぬなあ」  それまでどちらかというと大人しやかだった是界の顔が、このとき一変し、カッと眼を見ひらいて、凶相を帯び、にわかに凄まじい表情になった。その表情の変化は物凄く、宋滴ほどの者が、一瞬、たじたじと後ずさりそうになったほどだ。 「宋滴殿、約束を守っていただかぬ場合には、本意ではないが、この是界、たたらせていただくことになりまするぞ」 「なに!」 「まずは宋滴殿、あなた様は三年を待たずして、お亡くなりになられる。宋滴殿なかりせば、この一乗谷、戦国の嵐にさらされて、持ちこたえられようものか、はかなや、名門朝倉家も義景様の代で絶えることになりましょうぞ——わしの言うままに、稚児様をお渡しになればよし、そうでなく約定をたがえたときには、男児が生まれれば夭逝《ようせい》し、女児が生まれれば、その児がこの朝倉の家を滅ぼすことになる……それがこの是界のたたりでござりまするよ」 「宋滴様、この者、斬り捨ててもよろしゅうございますか」  是界の暴言についに耐えきれなくなったのか、五郎左衛門がそう言うと、宋滴の返事を待たずに、剣を抜きはらい、スルスルとまえに足を進めた。 「ほう、うぬは富田五郎左衛門だな。富田流がどれほどのものか、たかの知れた兵法に思いあがり、ようもこのわしに刃《やいば》を向ける気になった。その気概だけは誉めてやらねばなるまいが、不憫《ふびん》なり、その増上慢《ぞうじようまん》のむくいを受けて、うぬはこの場で死ぬことになる」 「言いたいことはそれだけか——」  五郎左衛門は静かにそう言い、剣尖を天にあげ、八双にかまえつつ、ジリジリと是界との間隔をつめていった。 「朝倉家が滅びると言われたのでは、家中の者として、これを聞きすごしにはできぬ。斬る」 「馬鹿め」  是界はそう怪鳥のような笑い声をあげ、すばやく飛びすさると、小薙刀の刃を包んでいる覆いを取った。 「おう!」  宋滴の喉から驚きの声が洩れた。飛礫もまた悲鳴のような声をあげている。  奇怪なことが起こった。月の光がふいにそこに凝集したように、薙刀の刃がギラギラと凄まじい光の奔流を放ったのだ。それは一筋の銀光となり、闇のなかに鋭くほとばしって、五郎左衛門の眼を射た。 「う!」  その光にたまりかねて、五郎左衛門がヨロヨロと後ずさった。 「逃げるでない。来《こ》よ、来よ——」  是界が含み笑いをしながら、その薙刀をわずかに振ると、光は複雑な渦を描いて、五郎左衛門のまわりに生あるもののようにうねった。  その光にはなにかふしぎな魔力のようなものがそなわっているようだった。五郎左衛門の身を金縛りに縛り、その意思に反して、体を動かしてしまうのだ。傀儡《くぐつ》師にあやつられる操り人形だった。五郎左衛門は懸命にそれに抗《あらが》おうとしているようだが、どうにも五体が思うようにならず、是界に命じられるままに、無力に歩を進めてしまう。  宋滴も、そして飛礫も、五郎左衛門が危機に陥ったことが分かっていながら、それをどうすることもできずに懊悩していた。このふたりもやはり、薙刀から放たれる光に封じられ、その体をピクとも動かすことができずに、ただ身もだえするばかりだった。 「来よ、来よ——」  しびれたようになっている頭のなかに、ただ是界の呪術めいた呟きの声だけが、不気味に聞こえている。  五郎左衛門は薙刀の光を見まいとして、眼をかたく閉じているようだが、その瞼を透かして、光は容赦なく眼のなかに飛び込んでくる。脂汗を流し、歯を食いしばりながら、地獄の底に、是界のもとに引き寄せられていくほかはなかった。 「つ、飛礫!」  ついに耐えかねたのか、五郎左衛門がそう悲鳴のような声をあげた。 「石を打て、わが眼をつぶせ!」 「と、富田様——」  飛礫が苦悩の声をふりしぼった。 「そのようなことはできませぬ。わしにはとてもそのような恐ろしいことは」 「なにを馬鹿な! 早くせぬか。飛礫、わしを見殺しにするつもりか。早くわしの眼を打て!」  富田様! 飛礫がそう悲痛な声をあげるのと、 「飛礫、やむをえぬ、五郎左衛門の言うとおりに致せ」  宋滴がそう命じるのとがほとんど同時であった。  絶対的な忠誠心を持っている宋滴にそう命じられたことが、一瞬、飛礫の身から呪縛《じゆばく》を解いたようだった。 「御免《ごめん》」  飛礫はそう声をあげるなり、すばやく腰の革袋から二つの石を取り出し、それを同時に闇のなかに打った。  あっ、と声をあげたのは、五郎左衛門ではなく、是界のほうであったようだ。  一瞬のうちに、薙刀の光は闇のなかに溶け込んで、それと同時に、是界の姿もフッと三人のまえから消え失せていた。  いつのまに立ち去ったのか、これはだれも気がつかないうちに、十兵衛の姿も消えている……  あとにはただ両眼をつぶされ、顔から血を流しながら、その場にうずくまっている五郎左衛門と、呆然と立ちすくんでいる宋滴、飛礫のふたりだけが残された。  月の光に朝倉館は銀色に浮かびあがり、いつものように何事もなく、しんと静まりかえっている。春の夜風がそよそよと吹きわたり、どこからか山桜の葉擦れの音が聞こえてきた。 「あれは本当のことだったのでござりましょうか。いま起きたことはみんな本当のことでござりまするか!」  ふいに飛礫がそんな狂おしい声をあげたが、もちろん宋滴にもそれは答えようのないことだった。  そのまま宋滴はなにも言わず、助けを呼んで、傷ついた五郎左衛門の身を運び入れるために、朝倉館の門のほうに歩きはじめた。    5  それから二年後、天文二十四年(一五五五)……  朝倉義景は越後の長尾景虎(上杉謙信)と同盟をむすんで、加賀の一向一揆《いつこういつき》を挟み撃ちにし、これを殲滅《せんめつ》することを考えた。  七月、七十九歳になる宋滴は総大将として加賀に出陣した。  この老将の出陣で、朝倉の全軍は奮いたったが、いかに宋滴といえども、八十歳になろうとする高齢で戦場に出るのは、さすがに心身ともに衰弱させられた。  どんなに攻めても、ムシロ旗を押し立て「南無阿弥陀仏」を唱えながら、ひた押しに押してくる門徒たちには、朝倉勢も苦戦を強いられた。  戦況は膠着《こうちやく》状態に陥り、ただいたずらに一進一退を繰り返すのみになった。  そして八月……  一乗谷からの早馬一騎が現れ、部隊の中央に陣取っていた宋滴のもとに、朝倉義景に女児が誕生したことを告げた。  が、知らせはそれだけではなく、 「桐姫様、昨夜、御他界なされました」  同時に、使者はそうした悲報も伝えたのだった。  もともと桐姫は体が弱く、あの細い体で出産に耐えられるものか、とそれが懸念されていたのだが、その不安が現実のものになったのだ。 「なんということだ——」  その知らせを聞いたとき、宋滴は悲痛な声をあげて、思わず立ち上がっていた。  ——男児が生まれれば夭逝し、女児が生まれれば、その児がこの朝倉の家を滅ぼすことになる……  加賀の一揆勢との戦いで、しばらく思い出すこともなかった是界のその言葉が、ふいになまなましく頭のなかによみがえった。  まさしく女児はその母親を滅ぼした! これが是界のたたりによるものだとは考えたくなかったが、宋滴はなんとしても一抹の疑念を拭いきれずにいた。 「なんということだ、なんということだ……」  宋滴は虚空の一点を見つめ、暗然とそう口のなかでつぶやいた。  ふいに胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。全身に脂汗が噴き出してきて、眼のまえが急に暗くなるのをおぼえた。  やはり七十九歳の高齢で戦場に出るのは無理だったようだ。無理に無理をかさね、衰弱しきった体に、桐姫の悲報を聞かされたことがいわば止めの一撃となって、やおら宋滴の心臓に襲いかかってきたのだ。 「ううむ——」  宋滴は呻き声をあげ、グラリとよろけて、そのまま地面に倒れこんだ。 「宋滴様!」  まわりの将兵たちのそうたち騒ぐ声を、かすかに意識しながら、宋滴の頭のなかに聞こえていたのは、やはり是界のかすれたような笑い声だった。  ——あなた様は三年を待たずして、お亡くなりになられる。宋滴殿なかりせば、この一乗谷、戦国の嵐にさらされて、持ちこたえられようものか、はかなや、名門朝倉家も義景様の代で絶えることになりましょうぞ……  兵たちに身を運ばれながら、「是界、この一乗谷をうぬの思うがままにはさせぬぞ」宋滴はそううわ言のように繰り返していたという。  もちろん飛礫《つぶて》を除いて、兵たちの誰ひとりとして、その意味するところを理解できようはずもなかったのだが。  義景は「宋滴倒る」の報に、すぐさまべつの者を大将に立て、宋滴を一乗谷に運び帰らせた。  宋滴をなんとか救おうと、八方に人を走らせ、名医を呼び集めたが、その病状ははかばかしくなかった。  妻を失った悲しみが癒《い》える間もなく、いままた大叔父にあたる宋滴を失わなければならないのか、義景の悲嘆にくれる様子は、はたで見ていても痛々しいほどだったという。  そんなある夜、瀕死の病状に耐えながら、なんとしても殿に目通りしたい、宋滴から義景にそんな申し入れがあった。  朝倉義景はその光景を見て、思わず声をあげた。  これまでこんなものが領内にあるとは夢にも考えていなかったことだ。いや、そもそもこんなものがこの地上に存在すること自体、義景の想像を絶していた。  はるか地下の洞窟に、陶器の実物大の兵、馬が造られ、それがあたかも軍が整然と進行するように、おびただしく並んでいるのだ。いや、かがり火のなかに浮かびあがるそれらの兵馬を見ているうちに、現実に義景は甲冑《かつちゆう》の響き、馬のいななきの声を耳にするかのように感じられた。  一乗谷の東にある飯田仁右衛門の山城の地下である。  かねてより、どうしてこんなところに山城が築かれているのか、義景はそれを不審に思ってはいたのだが、まさかその地下にこんなものが隠されていようとは考えてもいなかったことだ。 「人馬あわせて、およそ五百体、父君であらせられる孝景様が、長年ご苦労なさったすえに、ようやくお造りになられた陶俑陶馬《とうようとうば》でござりまする——」  飛礫に体を支えられながら、宋滴がそう苦しげにかすれた声で説明した。洞窟のかがり火のなかに浮かびあがる宋滴の顔は、すでに死相がくっきりと刻されていて、鬼気迫るものが感じられた。  陶俑陶馬、あるいは兵馬俑坑《へいばようこう》……  はるか後年、一九七四年になって、西安の東三十キロにある秦始皇陵の近くで、やはりこれと似たようなものが発見されている。地下五メートルに陶製の兵、馬などが整然と並べられていて、その数およそ七千余体、兵も馬もいまにも動き出さんばかりの迫力にあふれているという。  もちろん日本ではこれまで兵馬俑坑が発掘されたことはなく、おそらくは一乗谷のここにあるものが、我が国では唯一のものだと思われる。 「なぜだ、なにゆえに父上はこのようなものをお造りになられたのだ?」  義景が呆然としてそう問いかけるのに、 「これもあの是界のためでござりまする。あの是界めは一体何歳になるのやら、父君が朝倉家をお継ぎになられた四十余年まえ、忽然《こつぜん》と領内に現れて、おのが身分をもわきまえず、父君孝景様にある取り引きを申し出たのでございます」 「取り引き? どんな?」 「われに五百の生贄《いけにえ》を与えよ、是界めはそう申したのでございます。さすれば朝倉家に百年の安泰をもたらさんと——」  宋滴はそこで苦しげに咳を洩らし、しばらくゼイゼイと喉を鳴らしていたが、やがてまた声をふりしぼるようにして喋りはじめた。 「孝景様ともあろうお方がどうして是界などの力をお信じになられたのか、それは拙者にも分かりませぬ。いずれにせよ、孝景様は賢明なお方、それが人であれ、馬であれ、五百もの命をむざむざ是界ごときの生贄にするのに同意なさる道理がございません。すると是界めは生贄の替わりに、この兵馬俑坑を造ることを申し出て、それのみばかりか、おのれの分もわきまえずに……」 「わしの子を生贄に出すことを申し出たのだな。そして父上はそれに同意なされた」  義景はギリギリと歯を噛み鳴らしていた。 「はい、それが男児であれ、女児であれ、孝景様のあとをお継ぎになるお方の第一子を貰《もら》い受けたい、是界めはそう申し出て、孝景様はこれに同意なされたのです」  宋滴はそう返事をして、慌てて言葉をつけ加えた。 「殿、父君をお恨みになってはなりませぬぞ。そのときすでに是界めはかなりの老齢に達していて、よもや孝景様のお孫様の代まで生きのびようとは、孝景様のみならず、拙者も考えもしませなんだ。よもや、あの是界めがあれほどの化物であろうとは——」  宋滴はまた激しく咳こんで、ふたたび顔をあげたときには、その顔はどくろと見まがわんばかりに消耗しきっていた。 「殿、宋滴、最後の願いでござりまする。姫君を手放しなされ。この山城の飯田仁右衛門にお預けなされい。あの是界めは恐ろしい化物でござる。いかように姑息《こそく》な手段を弄《ろう》しても、是界めのたたりをかわさねばなりませぬ。それには姫君をお手元に置かれるのは禁物でござる。仁右衛門は万事をこころえた苦労人、姫君をお託しになられても、ご心配にはおよびませぬ。必ずや姫君はすくすくとお美しく成人なされるに相違ありません。男子ならば夭逝し、女子ならば国を滅ぼす、是界めはそう申しました。なに、それならばこちらもたたりを避ける手段をこうじるまでのこと。さしでたこととは存じながら、仁右衛門には稚児様を男児でも、女児でもなく、お育てするように、そう申しつけてございます——殿、なにとぞ、なにとぞ、宋滴最期の願いをお聞きとどけ下さいますように……」  血を吐くような声でそれだけを振りしぼると、宋滴はガクリと頭を落とし、そのまま飛礫の腕のなかで息絶えた。  義景のまえをはばかって、最初は嗚咽《おえつ》の声を噛み殺していたのが、ついには耐えきれなくなったのか、しだいに飛礫のすすり泣きの声は高くなっていった。  そのすすり泣きの声を兵馬俑坑の五百の人馬は、ただ冷たく、無表情に聞いているだけだった。  後の世に�宋滴夜話�、�朝倉宋滴話記�を残し、戦国に生きる者にはバイブル的な価値があるとまで評された一代の大武人、朝倉宋滴はこうしてこの世を去った。  腹病だったと言われているが、死因はさだかには記録されていない。  最期の最期まで朝倉家の行く末を案じていた宋滴にとって、是界のたたりという禍根を残したことが、どんなに口惜しかったか、その心中は察するに余りある。  ……御門《みかど》十兵衛は一乗谷を去ったあと、明智光安に臣従し、弘治二年(一五五六)、斎藤|義竜《よしたつ》の軍勢に明智城が落とされ、ふたたび浪々の身になったときには、明智十兵衛光秀を名乗るようになった。 �明智軍記�によれば、明智光秀の父は明智光綱とされ、もともと明智家の血筋であったように記されているが、実は明智光秀の素性はもうひとつ明らかではなく、天野|信景《さだかげ》の随筆集�塩尻�によれば、たしかに光秀は美濃の明智の出身にはちがいないが、本名を御門といい、のちに明智の姓にあらためたと記されている。  明智十兵衛光秀がふたたび越前一乗谷に戻ってくるのは永禄《えいろく》五年(一五六二)、宋滴が死んでから七年後のことである。  第二章 蟇目《ひきめ》    1  一乗谷川をはさんで、朝倉館と向かいあうようにして、一筋の道がある。  南はつきあたりになっているが、西に武家屋敷、寺院、東に町屋群を配して、通りは北にどこまでもつづいている。  町屋には鋳物《いもの》師、数珠《じゆず》屋、藍染《あいぞ》めの紺屋などが軒をならべ、見世棚を出していて、昼には人の往来が絶えない。さすがに北陸の雄、朝倉家の領地だけあって、そのにぎわいは京の都にもひけをとらないほどだ。  が、いまは寅《とら》の刻(午前四時)、通りもひっそりと静まりかえっていて、ただ夜明けの春の陽光だけが、ほんのりと射していた。  永禄《えいろく》九年(一五六六)、春。  ただ小鳥の啼《な》きかわす声と、川の水音だけがのどかに聞こえている。  だが…… 「おい、はやくせぬか」  ふいにそう囁くような声が聞こえると、一乗谷川の茂みをかきわけて、三人の男たちが現れた。  いずれも若く、屈強な体つきをした男たちである。  身に帯びているのはただ褌《ふんどし》だけ、頭髪から水をしたたらせていて、これまで一乗谷川につかっていたのは間違いない。  男たちはろくに濡れた体を拭こうともしなかった。手早く身仕度をととのえると、もう近在の百姓にしか見えなかった。 「行くぞ」  男たちはそのまま足を踏みだしかけたのだが、——ふいにギクリとその足をとめた。たがいに顔を見合わせる。  雑草の茂みのなかから妙な音が聞こえてくるのだ。  低く、ときおり高く、弓の弦をこするような音だった。  それがいびきであることに気がついて、男たちの表情を狼狽《ろうばい》の色がよぎった。  一瞬、男たちはするどい視線を交わしたが、たがいにうなずきあい、すぐに茂みのなかに踏みこんでいった。  ひとりの坊主が草のうえに身を横たえ、眠りこんでいた。  墨衣《すみごろも》はボロボロに破れ、頭にもむさくるしく毛が伸びている。なりこそ僧形《そうぎよう》だが、ほとんど乞食と変わりない姿だった。  ただ墨衣から伸びている手足は、たくましく陽に焼け、なんとはなしにそのことだけが乞食坊主に似つかわしくなく感じられる。  いびきをあげ、ぽかりとあいた口に、夜明けの光がうらうらと射しこんでいる。  男たちはまたたがいに顔を見かわした。ひとりの男がうなずくと、短刀の鞘《さや》を払い、スッと足をまえに踏み出した。  そのとき、その坊主がゴロリと寝返りをうって、男たちのほうに顔を向けた。 「うむ——」  男たちはおどろきの声をあげ、一斉に飛びすさった。  坊主は眼をあけている。笑いをふくんだ眼だった。——それでもわざとらしくいびきをあげているのが、いかにも小面《こづら》憎いものに感じられた。 「川の深さをさぐりに来たか?」  坊主はそうおだやかな声をあげ、 「おそらくは織田の細作《さいさく》、蜂須賀《はちすか》党の手の者ででもあろうかい」 「…………」  細作、地方によってはすっぱともはっぱとも呼ばれる。ひそかに敵を探索するために、戦国大名たちが他領にはなつ間者《かんじや》のことである。  男たちの顔色が変わったところを見ると、どうやらその坊主の指摘は的を射ていたようだ。  ——もしかしたら自分たちが川の深さをさぐっていたのを見られたかもしれない。  男たちは単純にそれを案じて、その坊主をあやめるつもりでいた。たかの知れた乞食坊主、その息の根をとめるのはなんの造作もないことだ、そう考えていたはずである。  が、自分たちの正体を見破られ、その自信がたやすく覆《くつがえ》された。こいつはただの乞食坊主ではない、そのおどろきが男たちのあいだに緊張を走らせた。  男たちはサッと飛びすさった。いまはもうそれぞれに短刀を引き抜いている。 「われは朝倉の手の者か——」  ひとりの男がそううめくような声で尋ねるのに、 「なんの、そのような者であるものか。ごらんのとおりの乞食坊主、おまえたちが織田の細作であろうがなかろうが、わしにはなんのかかわりもない。ここにいるのが目障りだというなら、さっさと退散させてもらう。そのように怖い眼をせずともよいわさ」  坊主はそう応じると、かたわらの網代笠《あじろがさ》をとりあげ、身を起こそうとした。  が、そんなことで男たちがこの坊主を見逃すはずがなかった。  シャッ、というような声を洩らし、ひとりの男が短刀を投げつけたのだ。  手練の早業《はやわざ》、細作ならではの敏捷な身のこなしだった。  が、坊主は身を一転させると、網代笠を顔のまえにかざした。短刀はむなしく笠に突き刺さり、ブルブルと震えている。網代笠のかげで坊主の右手がひらめいた。それがなにを意味する行為であったのか、一瞬のことで、男たちにもそれを見さだめることはできなかったようだ。 「うっ」  男たちの悲鳴の声が聞こえた。  残るふたりの男はすかさず坊主に斬りかかろうとしたのだが、その右手に思いもかけない痛みが走り、声をあげずにはいられなかったのだ。  その痛みのあまり、ふたりの男は不覚にも短刀を落とし、血のにじんだ自分の手を呆然と見つめている。  礫《つぶて》を打たれたのだ。ようやくそのことに気がついたらしいが、そのあまりの早業にただあっけにとられるばかりだった。 「坊主相手に刃物などふりまわすものではないわ。坊主を殺せば七代たたるというぞ。後生おそるべし、そうは思わぬか」  坊主はあいかわらず穏やかな声でそう言うと、ゴロリとふたたび地面に横たわった。 「さっきもいったように、おまえたちが織田の細作であろうがなかろうが、わしにはなんのかかわりもないこと。去《い》ぬるがよい。わしはもう少しここで朝寝を楽しんでいたい。じゃまをせんでもらいたいな」  子供のようにあしらわれ、一瞬、男たちの表情は屈辱にゆがんだが、さすがに織田の細作、その判断は早かった。すぐさま身をひるがえし、そのまま早朝の光のなかに走り去っていった。  男たちの姿はすぐに見えなくなり、また辺りは静まりかえり、小鳥の啼き声が聞こえるばかりになった。 「やれやれ、ご苦労なことだ——」  坊主はそうつぶやくと、もう細作たちなどには興味をなくしたように、大きなあくびを洩らした。  本気で眠りなおすつもりでいるらしい。網代笠から短刀を引き抜くと、それを草のなかに放り出し、自分はまたゴロリと地面に横になった。  いったんは眼を閉じたのだが、どうしたのか、ふいにその眼をカッと見ひらいた。  やおら腹ばいになると、地面にピタリと耳をつける。そして細作たちをあしらっていたときとは別人のように真剣な表情で、ジッと地をつたわってくる音に聞きいっている。  やがて、その顔になにか恍惚《こうこつ》としたような表情が浮かんできた。 「おう、聞こえてくる、聞こえてくる——」  うっとりとしたような声でそうつぶやいた。 「疾風《はやて》さまのおでましだわい」    2  疾風《はやて》は馬を走らせている。  七歳のころからなじんでいる白馬で、それほど鞭をくれなくても、疾風がなにを考えているのか、自然に感じとってくれる。それこそ自分の足のように、思うがままに動いてくれるのだ。  疾風は馬を早駆けさせるのが好きだった。馬に乗り、野山を疾走しているときにだけ、かろうじて自分のなかにわだかまっている気鬱《きうつ》を忘れることができる。自分の未来に光が射し、そのなかで思う存分たわむれることができるような気がするのだ。  なにが自分をこんなに気鬱にさせているのか、疾風自身にもよく分からない。父母は優しく、毎日の暮らしにもなんの不自由も感じない、——それなのになにか胸に鬱々とするものがあり、それを忘れるためには、こうして馬を走らせるしかないのだ。  髪は波うつように豊かで、長い。  それだけを見れば、まちがいなく女であるが、純白の小袖に、やはり白のたっつけ袴、肩には白鮫鞘《しらさめざや》の太刀を負って、馬を疾走させている姿はとうてい女には思えない。きらきらと輝く澄んだ眼には、野性的なうつくしさがあり、もしかしたらこれは少年なのではないか、と見る人をまどわせるのだ。  ——おまえは男でもなければ女でもない。おまえはおまえなのだ。自分が男であるか女であるか、そのようなことには心まどわされずに、自分の好きなように生きればそれでいいのだ……  父、飯田仁右衛門はいつもそういう。  仁右衛門は領主から東の山城をまかせられている朝倉家の大臣《おとな》である。  家中でもその実力を認められている人物で、その子である疾風も自分の好きなようにふるまう自由を与えられていた。家臣たちも仁右衛門の方針をよく心得ていて、疾風のすることにはいっさい口をはさもうとはしない。  疾風は自分のことを男でありたい、とそう考えている。戦国の世に女であることがどんなにつまらないか、そのことは十分に承知しているつもりである。  が、疾風も十二歳になり、このところ胸がふくらんできたようである。乳房がふくらんでは弓を引くさまたげになる。晒布《さらし》を何重にもきつく締めつけ、ようやく胸のふくらみをおさえることができたが、少女特有の体のやわらかな線までは隠すことはできない。  疾風は馬術ばかりではなく、ごく幼いころより、師について、深甚《しんじん》流の剣を修行し、棒、短棒術、それに柔術をまなんでいる。もちろん、まだ十二歳の若年ということもあり、いずれも印可《いんか》状をさずかる域にまでは達していないが、兵法、柔術には天性の資質にめぐまれているようだ。  それだけに自分の体がしだいに女っぽさをおびていくのが、なんともいえず口惜しい気がしてならない。  ——わたしは女ではない。女なんかになるのはいやだ。  疾風はそう歯がみする思いだったが、これだけは自分の力ではどうにもなるものでもなかった。  だが……  疾風のなかにわだかまる気鬱は、かならずしもそればかりが理由ではないようだ。疾風のなかには、どこにもやり場のない情熱のようなものがフツフツとたぎっていて、彼女はそれを自分でも押さえかねていた。  ——わたしにはなにかやるべきことがあるはずだ。  そうした思いは日々つのるばかりだが、自分のやるべきことが何であるのか、当の疾風自身にもよくわからないことだった。  そのうつうつとした煩悶を、自分でもどうにもあつかいかねて、疾風はただそれを忘れたい一念で、毎朝、こうして馬を走らせているのである。  町屋を走らせているとき、夏草のなかに立ちあがり、疾風のほうを見ている坊主の姿があった。  もちろん疾風のほうは、坊主などには眼もくれず、そのまま走り過ぎていったのだが、その坊主がニコニコと嬉しそうにしていたのが、ふしぎに印象に残った。  これまで一度も会ったことのない人物なのに、その坊主がなにか疾風に親近感をいだいているように感じられたのだ。いかにも人なつっこそうな坊主だったが、それにしても見も知らぬ人間に親愛の情を持たれるのは、なんとなく気持ちが悪い。  ——いったい何者だろう?  疾風は首をひねった。  ……松永久秀が三好三人衆とむすんで、京都二条御所に兵を進め、十三代将軍足利義輝を暗殺したのは昨年のことである。  そのとき義輝の弟のひとりは、覚慶《かくけい》と号して、奈良の一乗院の門主であった。  松永久秀はこの覚慶を捕らえ、興福寺に幽閉した。  が、覚慶は興福寺を脱出し、越前の朝倉家をたよって、一乗谷に入った。  覚慶は還俗《げんぞく》し、足利|義秋《よしあき》(義昭)と改名して、朝倉氏に出兵をうながし、諸国の有力な戦国大名にもしきりに檄《げき》をとばしている。  義秋の要請にもかかわらず、朝倉|義景《よしかげ》は一乗谷から押し出て、出兵しようとはしなかった。  いまは織田信長、武田信玄、上杉謙信、それに加賀の一向一揆までもがいりみだれ、たがいにたがいを牽制しあい、戦国の世は混沌《こんとん》としている。  いかに足利義秋にうながされたからといって、朝倉義景もおいそれと兵を動かすわけにはいかなかったのである。  だが、——朝倉氏が将軍候補ともいうべき足利義秋をむかえたのには、各大名とも平静ではいられないはずで、このところ一乗谷に細作がまぎれこんできた、という噂が頻繁にささやかれるようになった。  ——もしかしたら、あの坊主もそうした細作のひとりではないのか。  疾風がフッとそんな疑問をいだいたのも無理からぬことであった。  が……  ひたすら馬を駆る爽快さに、そんな疑問もすぐに忘れてしまった。  あの坊主が細作であろうがなかろうが、どうでもいいことではないか、疾風はそう考えている。  どうせいまは戦国の乱世、大名たちが送りこんでくる細作、乱波《らつぱ》をいちいち気にしていたのでは、一乗谷の人間は他領との行き来をいっさい絶たなければならない。それは同時に朝倉氏の繁栄を絶つことでもあり、そんなことは考えるだけでもおろかしかった。  いつものように町屋から菅倉の庄の村のほうに馬を走らせた。  しぶきをあげながら小川をわたると、一乗山、文殊山の山裾を縫うようにして、田圃がひろがっているのが見えるようになる。  菅倉の庄の村は年貢の総額が五十石余、まずは裕福といってもいい村で、田園風景がことのほかうつくしい。疾風は幼いころ、よくこの村で遊んだ記憶があり、馬を駆る道筋として、とりわけ気にいっている場所だった。  が……  今朝の菅倉の庄はいつものように平和でのどかではなかった。  そのことに気がつき、疾風は手綱を引いて馬をとめた。  そして眼をせばめるようにして、菅倉の庄のほうを見つめる。  まちがいなかった。村の上空に煙りがたちのぼり、どうやら一軒の家が燃えているようだ。  それにしては菅倉の庄がしんと静まりかえっているのが腑に落ちなかった。  まさか百姓たちがこの火事に気がついていないはずはなかった。  百姓たちは朝がはやい。疾風が早駆けをするときにも、もう田圃に出ていて、笠をとって挨拶をするのがつねだった。  それがどうして家が燃えるままにまかせ、なにもせずに手をこまねいているのか? 火事ももちろんだが、むしろ百姓たちがそれを放置したままでいることに、疾風はとまどわざるを得なかった。  ——いったい、なにが起こったのか。  疾風は馬にピシリと鞭を入れた。  このところ絶えてしないことであったが、どうして村人たちが火事を放置しておくのか、そのわけを知りたくて、いつになく気持ちがはやるのを覚えたのである。  そのまま一気に馬を駆り、村のなかに踏み込んでいった。  燃えているのは村のはずれにある小さな家だった。  すでに草葺《くさぶき》の屋根にまで火がまわり、もうどうにも手のほどこしようがない。ゴウゴウと噴きあげる炎は火の粉を吐き、それが春ののどかな陽光のなかに、おびただしく舞っていた。  それなのに村はやはりしんと静まりかえったまま、どこにも人の姿がないことに、疾風は自分が白昼夢を見ているような眩惑《げんわく》感にみまわれた。 「だれかおらぬのか、家が燃えている。だれか火を消そうとする者はおらぬのか」  疾風は馬を捨て、そう叫んだが、その声に応じようとする人間はいなかった。  村といっても、このころの村はのちの江戸時代のように、小百姓がそれぞれに畑地をたがやしているのではない。在家内に妻子、一族、名子、被官がともに住んで、そこに田畑を持ち、農業用水の濠《ほり》をめぐらした大農業経営体をいとなんでいることが多かった。  それだけになおさら農民たちには共同体意識は強かったはずで、在の家が燃えていることに、だれも関心を持とうとしないのは、たしかに奇怪なことというべきだった。 「だれもおらぬのか、どうして火を消そうとしないのだ——」  疾風はそう声高《こわだか》に呼びつづけたが、だれもそれに応じようとする人間がいないのに業《ごう》をにやして、ついにみずから濠のほうに駆け寄ろうとした。  とりあえず延焼をふせぐためだけにも、水をかけなければならない、疾風はそう考えたのである。  そのとき、ようやく疾風に声がかかった。 「おい、きさま、そこでなにをするつもりなのだ? よけいなことをせぬほうがうぬの身のためだぞ——」  それはそんな恫喝《どうかつ》の声だった。    3  武士といっていいかどうか、主なしの牢人であることはまちがいないが、むしろ野ぶせりと呼んだほうがふさわしいようなむさい身なりの男たちが三、四人、燃えている家のかげから足を踏み出してきた。  いずれも屈強な体格をしているが、その眼もとに下劣な品性がにじみ出ていて、いかにも卑しげな顔つきをしている。どうやら兵法修行と称して、仕官を求めて諸国をさすらっている男たちであるらしく、合戦があいつぎ世が乱れるにつれ、しだいにこうした牢人たちが増えてきている。 「なんだ、まだ子供ではないか。子供ならなおさらのこと、余計な手出しはせぬほうが身のためだ——」  牢人のひとりがせせら笑うようにそう言い、フッとその顔にけげんそうな表情を浮かべた。 「おまえは女か、それとも男なのか?」  その好奇の眼に、疾風は頭のなかがカッと熱くなるのをおぼえた。が、いまはその非礼を咎《とが》めだてしている場合ではなかった。 「どちらでもいい。そんなことよりもはやく火を消さぬか。おまえたちはこのままなにもせずに家が焼け落ちるのを待つつもりなのか!」  疾風はそう叫んだのだが、 「ほほう、こいつは女のようだぞ。こいつはおどろいた。男のような姿をしているが、こいつはまさしく女だ——」  その男はそう舌なめずりするような声でいっただけだった。 「しかも、なかなかうつくしい。見ればまだ子供のようだが、一、二年もすれば、立派におれたちの相手ができそうだ」  ほかの男がそう応じる。  その牢人たちには火を消すつもりは頭からないようだった。家が燃えるのもいっこうに気にせず、ただ好色そうな眼つきで、疾風の全身を舐めまわすように見つめているばかりだ。  いつもの疾風だったら絶対にこんな非礼は許さない。幼少のころから深甚流の兵法を体にたたきこまれ、こんな牢人たちなど、たやすく斬りふせる自信がある。  が、いまはなにはともあれ、火を消すことを考えるのがさきだった。こんな牢人たちを相手にして、みすみす延焼の危険をおかすわけにはいかなかった。  疾風はもう牢人たちにかまわず、濠のほうに駆け寄ろうとしたのだが、 「おい、なにをするつもりだ」  そのまえに男たちが立ちふさがった。 「なにを馬鹿な! 火を消すのに決まっているではないか」 「さて、それはこまったな。なあ、みんな、この火を消されたのでは、われらがこまりはせぬか」  男は仲間たちの顔をわざとらしく見わたした。その顔に人をあざけるような薄笑いを浮かべていた。 「大いにこまる。そんなことをされたのでは、われらはつつがなくお役目をはたすことができなくなるわ」  すぐにべつの男がそう応じた。この男もやはり人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている。 「お役目? なにを血迷ったことをいっているのだ。おまえたちの役目は家を燃やすことなのか」 「おお、そうよ。おれたちのお役目は家が燃えつきるのを見とどけることにあるのだ。だれであろうと、その火を消させるわけにはいかぬのだ」 「さては、おまえたちは野ぶせりなのだな。この村を襲って、略奪をはたらくつもりなのか」  疾風は剣の柄《つか》に手をかけた。相手が法を心得ぬ野ぶせりのたぐいであるなら、斬りむすぶのになんの遠慮もいらなかった。 「野ぶせりとはずいぶん見くびってくれたものだな。小僧、いや、娘、おれたちに刃《やいば》を向けるとあとで悔やむことになるぞ——」  男はあいかわらず薄笑いを浮かべたまま、 「おれたちは鞍谷《くらたに》の庄のご城主、鞍谷|刑部《ぎようぶ》さまにお仕えしている者だ。おまえも越前に暮らしている身であれば、よもや鞍谷刑部さまの名を知らぬはずはあるまい」 「…………」  剣の柄頭にかけられた指がピクリとこわばるのが感じられた。  鞍谷刑部はこの菅倉の庄の領主のはずである。  疾風も朝倉家の大臣《おとな》の娘であり、それだけのことなら、なにもこの男たちを恐れなければならない理由はない。が、鞍谷刑部は数年まえに逝去した小宰相《こさいしよう》の局《つぼね》の父親であり、朝倉義景の男児、お世継ぎの阿君《くまぎみ》の祖父にあたる人物だった。  朝倉義景の親戚であり、阿君が朝倉家を継いだのちには、領主の祖父となる。  鞍谷刑部はまずは朝倉家で最大の実力者であり、たとえ飯田仁右衛門の娘であろうと、その臣下に刃を向けたとあっては、後のち面倒なことになるのは避けられなかった。 「どうした、娘、おれたちが鞍谷刑部さまの手の者だと知って臆《おく》したか? いずれの家中の者だかは知らぬが、おれたちに刃を向けるのは、鞍谷刑部さまに、ひいてはお世継ぎの阿君さまに刃を向けることになるのだぞ」  男はますますかさにかかった物言いになった。その唇にきざまれた嘲笑がいかにも憎々しげなものに感じられた。 「————」  どうしていいのか判断に窮して、疾風は燃えさかっている家を見あげた。  草葺の屋根はいまや完全に炎につつまれ、いまにも焼け落ちそうになっている。いったん屋根が焼け落ちれば、炎はすぐにも田畑に燃えひろがるはずで、そうなればそれこそ全村が燃えあがらないともかぎらない。  ——よしんば相手が鞍谷刑部の家中の者であろうと、この非道をそのまま見過ごしにはできぬ……。  この歳《とし》の少女にありがちな純粋さ、潔癖さから、疾風はそう考えた。このことのために、父にまで咎《とが》がおよぶようであれば、そのときには疾風が自裁して、自分ひとりが死ねばそれでことは済む。 「————」  疾風がそう決意し、剣を引き抜こうと、柄頭にかけた指に力をこめたそのとき—— 「おやめくだされ。お嬢さま、これはわびごとでござりまする。どうか短慮をお起こしになられぬよう、これはわびごとでございますれば……」  背後からそう声が聞こえてきた。必死の声だった。  いつのまにか疾風の背後には村人たちが集まっていた。  いま疾風に声をかけたのは庄屋の善衛門のようだった。真っ青な顔をして、すがるような眼つきで疾風を見つめている。 「わびごと……」  疾風は呆然として剣から手を離した。 「わかったか。この村の百姓は年貢の納入をこばんで、けしからぬふるまいに及んだ。われらは鞍谷刑部さまの命をうけて、しかとわびごとが果たされるか、それを見とどけに参ったのだ」  男が勝ち誇ったようにそういう。疾風を見る眼にあからさまな嘲笑の色が浮かんでいた。 「ごらんのとおり、家は焼けおちましてございます。どうかわれらの真情をおくみとりになり、そのむね鞍谷刑部さまによろしくお取りなしいただきますように——」  庄屋がそう頭をさげ、ほかの村人たちも卑屈なぐらい丁重に、牢人たちに頭をさげた。 「よし、わかった。たしかに家が焼けおちるのは見とどけた。このうえは人質を出すことを忘れるでないぞ」  牢人はいばった声でそういい、ジロリと疾風のほうに視線を向けた。ことさらゆっくりとした、無礼な眼つきで疾風の体を見まわして、ニヤリと笑いを浮かべた。 「いい体をしておるわい」  その男がそういうと、ほかの牢人たちもドッと笑い声をあげた。あきらかに疾風を辱《はずかし》めることに快感をおぼえていた。品性がいやしく、恥というものを知らない山犬のような男たちだった。  笑い声をあげ、牢人たちが立ち去っていくのを、疾風は怒りと屈辱感に震えながら、ただ黙って見送っているほかはなかった。    4  越前一乗谷には四十以上もの寺院がある。  とりわけ谷の中央部、西の山裾には多くの寺院が集まっていた。  東宝寺もそのひとつで、東西およそ四十メートル、南北三十メートルほど、供養仏が多くならべられている寺院だった。  夕暮の、しだいに光がおとろえて、あたりが暗いあい色に閉ざされるころ、酉《とり》の刻(午後六時)、……  その東宝寺にひとりの武士が現れた。  明智十兵衛光秀である。  あいかわらず髪をきれいに束ね、顔には髭の一本も残さない、一重瞼の美男ぶりだが、その眼がやや険しさを増したようだ。  明智光秀が越前一乗谷に舞いもどってきたのは四年まえ、永禄五年(一五六二)のことである。  以前に越前に来たときには、御門《みかど》十兵衛を名乗っていたが、明智氏に仕えていた縁で、明智姓を名乗るようになっている。  その明智氏も美濃の斎藤|義竜《よしたつ》に滅ぼされ、流浪《るろう》のすえ、また一乗谷にもどってきた、ということだ。  永禄五年、朝倉氏が加賀の本願寺一揆と戦ったとき、一揆軍を撃退する手柄をたて、五百|貫文《かんもん》の知行《ちぎよう》をあたえられ、朝倉家に召しかかえられた。  いまでは雑兵百人をあたえられ、上城戸から西へ二キロほど離れた地に、家をかまえている。  朝倉氏の下級武士は城戸の外に住むのがならわしで、明智光秀、それほど優遇されているとはいえないようだ。  光秀は寺の裏にまわった。  寺の裏は墓地になっていて、暮れのこった淡い光のなかに、おびただしい数の石塔がぼんやりと浮かびあがっている。  そのなかでもとりわけ大きな石塔のまえに、ひとりの武士がうずくまっていた。合掌し、頭をたれて、しきりに口のなかで経文をとなえている。  光秀が背後に立ったのにも気がつかないようだ。  鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》、——五年まえに死んだ義景の側室、小宰相《こさいしよう》の局《つぼね》のじつの父親であり、今年五歳になるお世継ぎ阿君《くまぎみ》の祖父にあたる人物だった。  鞍谷刑部が手をあわせているのは、娘の小宰相の局の墓だった。  おそらく供の者は寺の外で待たせているのにちがいない。たったひとりで墓参をしているのは、よほど鞍谷刑部が娘を愛していたからにちがいない。  鞍谷さま、光秀はそう声をかけた。  鞍谷刑部はその声に顔をあげ、光秀の姿を認めると、ギクリと立ちあがった。  鞍谷刑部が光秀を嫌っているのはあきらかだった。夕暮の淡い光のなかでも、その顔に嫌悪の表情が浮かんでいるのがありありと見てとれた。  が、光秀は相手が自分にどんな感情をいだいていようと、そんなことを気にする人間ではなさそうだった。 「いつもながら鞍谷さまの菩提心《ぼだいしん》のあついことには、この十兵衛、ほとほと感服つかまつる。小宰相の局さまもさぞかしおよろこびのことでございましょう——」  ぬけぬけとそうした阿諛《あゆ》のことばをつらねる。 「いや、それにしても小宰相の局さまはうつくしい女人であらせられた。お屋形さまがご執心であらせられたのも理の当然。あれほどおうつくしい女人が夭折なさるとは、いや、天命というものはつくづく非情なものでござるなあ」  十三年まえ、——朝倉義景に召されるまえに、そのおうつくしい女人に性技を教えこんだのは、ほかならぬこの光秀なのだから、これはいよいよ人を食ったことばといわなければならない。  鞍谷刑部には、光秀が自分の娘に閨《ねや》のわざを教えるのを隣室で聞いていた地獄の記憶がある。ほんとうなら鞍谷刑部は光秀など顔も見たくない人物であるにちがいない。  だが……  小宰相の局が側室になれたのも、光秀が教えこんだ濃厚な性技が、義景によろこばれたからだ。鞍谷刑部はそのことを十分によく承知している。  いわば義景に自分の娘を売りつけ、世継ぎの祖父という現在の栄達を手に入れたわけで、そのことを考えれば、あまり光秀に冷淡にはふるまえない弱みがあった。 「足利義秋さまをお迎えする明日の宴には、そなたも来るのであろうな?」  さすがに光秀の臆面もない阿諛には嫌気がさしたのか、刑部はそう話題を変えた。 「はい。と申しましても、鞍谷刑部さまとは異なり、それがしはわずか五百貫文の軽輩の身、末席につらなるだけでござるが——」  刑部は自分のおかげで現在の栄達を手に入れたのだ、という皮肉をことばの端にふくませて、光秀はそういうと、 「それにしても斎藤|兵部少輔《ひようぶのしようゆう》さまのご息女、側室の小少将さまもおうつくしい方でございますなあ。いや、小宰相の局さまもおうつくしい方であらせられたが、それにおとらぬ美貌。次から次に美女を側室になされる、いや、正直、この光秀、なにやらお屋形さまがねたましゅうてなりませぬ——」  小少将は小宰相の局が病死したあと、義景がみそめた側室だった。十五歳になったばかりの美女で、義景があさましいほど夢中になっている、という噂が家臣のなかに流れている。  刑部はギクリと顔をあげ、 「よもや、そなた小少将さまにまで手を出したのではあるまいな」  そう声をひそめて尋ねてきた。 「なにを仰せられます。そのようなことがあろうはずがござりますまい。それがしは五百貫文取りの軽輩、なにゆえもってお屋形さまのお側室に手を出すなどと、そのような恐ろしいことができましょう。そのようなお疑いをかけられたのでは、それがし、はなはだ迷惑でござる——」  光秀はそう手を振って否定したが、それでもなお刑部は疑わしげな眼を向けている。  なにかというと五百貫文の知行を口にするが、光秀がその程度の地位におさまる男でも、満足する男でもないことは、だれよりもよく刑部が知りつくしている。この光秀は腹のなかにどんな野望を秘めているのかわからない、得体の知れない男だった。  そのとき——  いきなり光秀が声をあげ、その右手をひらめかせた。光秀の手から銀光が放たれ、それが石塔のかげに吸いこまれていった。  光秀が手裏剣を打ったのだ、そう刑部が気がついたときには、もう光秀の体は石塔のかげに飛びこんでいる。 「ど、どうしたのだ、光秀!」  刑部はうろたえながら、光秀のあとを追った。  光秀は石塔のかげに凝然と立ちすくんでいる。草のうえに網代笠が落ちていて、光秀はそれを見つめているようだった。 「ねずみが一匹、われらの話を聞いていたようでござる——」  光秀はそうつぶやくように言った。 「いやはや、足の早いねずみめで、風をくらって退散したようでござるな」  網代笠には光秀の投げた手裏剣が突き刺さっていて、それがまだブルブルと細かく震えていた。  その翌日……  足利義秋(義昭)を一乗谷に迎えた宴の席が、南陽寺において、はなばなしくとりおこなわれた。  南陽寺は朝倉館の東方二町余のところに位置していて、京都北山の金閣寺を模したという、広大な庭園を有している。  庭園には糸桜《いとざくら》があわあわと咲きほこり、宴の華やかさに、いっそうのいろどりを添えていた。  その桜の下に緋毛氈《ひもうせん》を敷き、足利義秋を主賓として、その側近である細川藤孝、それにもちろん朝倉義景、その家臣たちなどが顔をそろえている。  このとき朝倉義景は三十五歳、そのかたわらには愛妾の小少将があでやかな小袖を着て、艶然とほほえんでいる。  饗宴のたけなわには、力自慢の家臣の大太刀の乱舞などもあり、さらにはなやかに宴が盛りあがった。  光秀が鉄砲の妙技を披露するように命じられたのも、やはり酒席の趣向からだった。  光秀は鉄砲の名手である。  以前にも、やはり義景の面前において、射撃の妙技を披露したことがある。そのときには二十五間(およそ四十五メートル)向こうに※[#「土へん+朶」]《あずち》を盛り上げ、そこに一尺四寸(およそ四十二センチ)の的を立て、二時間のうちに百発の弾を撃ちはなった。そのうち六十八発が的の黒星を射抜いて、残りの三十二発もことごとく的に命中していた。  これほどの名手であれば、酒席の趣向に鉄砲のわざを披露することなど、光秀にはなんの造作もないことだった。  小少将が投げあげる扇を的にすることが決まった。  小少将は宴の中央にふみだして、的にする扇を頭上にふりかざした。  これでまだ十五歳とはとうてい信じられない。かたちのいいうりざね顔に、人形のように品よくととのった目鼻だち、その濡れぬれと黒い瞳が、なんともいえない色香をただよわせている。袖からこぼれおちる繊手《せんしゆ》の白さが光秀の眼に滲みこんだ。——これほどの女性《によしよう》であれば、義景が身も心も溺れるのもむりはない、そう感じさせる美しさだった。  小少将が扇を投げあげ、光秀の放った弾はそれを見事に射抜いていた。  満座の喝采のなか、光秀は自分でも大胆にすぎると思われるような視線を、小少将に向けていた。  小少将のほおは赤らんで、その眼がうるんでいる。  それが鉄砲の妙技に酔いしれているせいなのか、それとも光秀の無遠慮な視線のためなのか、それは光秀自身にもよくわからないことだった。  とにかくこれで小少将に自分という人間を強く印象づけるのには成功したわけだ。いまはとりあえずこの程度のことで満足しなければならない。  ——いや、小少将だけではない。これで足利義秋も朝倉家に明智光秀という人間がいることを胸に刻みこんでくれたはずだ……  光秀は心中ひそかにほくそえんだ。  このとき足利義秋は三十歳、光秀の鉄砲の妙技に無邪気によろこんで、上機嫌になっていた。  これで小少将ばかりか、足利義秋にもとりいるきっかけを得たことになる。光秀はその成果に十分に満足していた。なんの不満もなかったはずなのだが、——席にもどるとき、自分にそそがれる険しい視線を感じて、かすかな緊張をおぼえていた。  光秀に険しい視線をそそいでいるのは、飯田仁右衛門だった。  ほとんど無表情の、いつもながらの穏やかな顔だったが、仁右衛門の光秀を見る眼にはたしかに一点、敵意のようなものが感じられるようだった。  光秀は朝倉家の人間をおおむね軽蔑し、馬鹿にしていたが、どうしてかこの仁右衛門という人物だけは苦手だった。そんなことがあるはずはないのだが、朝倉家の大臣《おとな》として、義景の信頼を得ているこの人物だけは、光秀が心中ひそかになにを考えているのか、それを見抜いているような気がするのだ。  自分の席についたあとも、光秀は仁右衛門の視線を忘れられずに、背筋に冷たい汗をおぼえている。——飯田仁右衛門、この男だけは早いうちに始末をつけておかなければならない。  それにはどうすればいいか、光秀はしきりにその方策を考えていた。    5  南陽寺で足利義秋を歓迎する宴がもよおされていたのと同時刻……  ここ菅倉の庄をあらためて訪れた疾風《はやて》をまえにして、庄屋の善衛門が詫び事の説明をしていた。  場所は庄屋の家、——といってもそんなに大きな家ではない。屋根は草葺で、ころばし根太《ねだ》に低い床を張って、そのうえにはむしろが敷かれている。  そのむしろのうえに対座して、疾風は庄屋の話を聞いているのである。  ときおり外につながれている疾風の馬のいななく声が聞こえていた。 「われらはなにもむげに年貢をおさめるのを拒《こば》んでいたわけではありませぬ——」  庄屋の口調は重かった。 「いつものように五十石余の年貢をおさめるだけであるなら、なんの不満もありませんでした。無理難題をふきかけてきたのは、むしろ鞍谷刑部さまのほうなのでございます。例年、年貢の納め升《ます》は九合五勺のものに決まっておりました。それを鞍谷さまはなんの断りもなしに、十二合の升におきりかえになられました。九合五勺升と十二合升とではその底にこびりつく米の量にも、たいそうな違いがございます。細かいことを申すようでございますが、これが五十石とかさなれば、われら百姓にはそれこそ生き死ににかかわってくることでござりまする……」  庄屋はホッとため息をついた。苦悩のしわが深くきざまれた、いかにも切なげな表情だった。 「十二合升で年貢がかせられるようであれば、われらは一村|逃散《ちようさん》も辞さないつもりだ、そう強く申し入れました。そのうえで年貢の詫び事をするために、われらは請文《うけぶみ》を用意し、村のおとなたちが三人まで入道になり、鞍谷さまのもとへ掛けあいに出向いたのでございます……ところが鞍谷さまは三人の者を成敗なされて、そればかりか解死人《げしにん》を出せ、煙りをあげよ、このうえは年貢の遅れはいっさいまかりならぬ、という無慈悲なお達しでございました——」 「…………」  疾風もため息をついた。  これまでも年貢の多少が問題になり、守護と百姓との関係がこじれたことは例がないではない。  が、こんなに守護側が一方的に年貢の納入をせまってきたことは例がなく、たしかにこれは慈悲に欠ける施策というほかはなさそうだった。  百姓とのあいだにいざこざが起こったときには、それを解決するために、昔からさだめられている不文律の規則のようなものがあり、守護といえども一方的にそれを無視していいという法はない。  庄屋の話では、村の有力者が三人まで、頭を剃って入道になったうえで、鞍谷刑部のもとに掛けあいに出向いているらしい。  入道になる、ということはそれだけで恭順の意を表しているわけで、それをことごとく斬り捨てられたのでは、百姓たちが色をなすのも当然だった。  この時代、戦国大名たちがたがいに服従や講和をちかう証《あか》しとして、息子を人質にさしだし、娘を政略結婚の犠牲にしたことは、よく知られている。  が、これはこの時代のいわば一般通念であって、人質をさしだし、問題を解決しようとしたのは、なにも武士にかぎられた話ではなかった。  たとえば村でなにか問題が起こり、守護にたいして恭順の意を表し、降伏の意思を明確にせねばならないときには、庄屋の身代わりとして人質をさしだすのが通例になっている。それを解死人と呼んでいた。  それだけではなく、これもやはり詫びの意思表示として、村内にある家に火を放ち、煙りをあげることも、しばしばおこなわれていたらしい。 「三人のおとなを成敗なさっただけでは満足なされなかったのか、いきなりあの牢人たちが押しよせてきて、これはわびごとだと称して、家に火を放ったのでござりまする。そればかりか、さらには人質として解死人をさしだせ、というやつぎばやのお達し、われら百姓はどうしてよいのやら、ただただ途方にくれるばかりでございます……」 「————」  疾風は唇を噛みしめた。  聞けば聞くほど、鞍谷刑部の施政は悪政というほかはない。  が、——まがりなりにも鞍谷刑部は世継ぎの阿君《くまぎみ》の祖父であり、その悪政をいさめることができるのは、領主の朝倉義景をおいてほかにはいそうもない。しかし義景は阿君を溺愛《できあい》し、その祖父である鞍谷刑部をいさめるなど、その可能性を考えることすら愚かしかった。  ——わたしにはどうすることもできない。  疾風は無力感に打ちひしがれている。 「それで身代わりになって人質にさしだす者の心当たりはあるのか?」  疾風はそう尋ねた。 「はい、村にまぎれこんできた男をひとり、こんなこともあろうかと一年ものあいだ扶養し、やしなって参りました。もとより素性も知れず、筋目なき者、この者を解死人としてさしだすことは、本人も承諾いたしておりまする」  これもまた例のないことではない。こうしたとき、庄屋の身代わりとしてさしだすために、たとえば浮浪者などの人間を、つね日頃から扶養しておくのは、このころの村にはよく見られることであった。 「それはどのような者なのだ?」 「はい、これがおかしな男でして、蟇目《ひきめ》という名前以外には、なにひとつ自分の口からは申そうとはいたしません。べつだん悪さをするわけでもないので、村のはずれに住まわせているのでございますが……」  そのときふいに入口からさしこんでいる陽の光が翳《かげ》り、土間にひとりの男がふみこんできた。  大きな男である。  蓬髪《ほうはつ》、襤褸《ぼろ》をまとい、肌は汚れに汚れて、その顔つきさえさだかではない。その大男がどういうつもりか、疾風の顔を見るなり、ニヤリと笑いを浮かべた。 「これがいま申しあげた蟇目という者でござりまする」  庄屋がそういった。  第三章 閻魔冥官《えんまめいかん》    1  春……  一乗山にはさまざまなみどりが萌《も》えて、うららかな陽光にきらめいている。  その山道をひとりの巨漢が歩いている。襤褸《ぼろ》をまとい、手には八手《やつで》の葉っぱを持ち、それを頭のうえにかざしていた。  蟇目《ひきめ》である。  蟇目はなんの屈託《くつたく》もなさそうな顔つきをしている。  垢《あか》にまみれてよくは分からないが、瞼《まぶた》が重たげに下がり、いまにも眠りこんでしまいそうなとろんとした表情だ。それが小鳥が飛びたつのを見るたびに、あるいはかれんな草花を見つけるたびに、いかにも嬉しそうな顔をして笑う。その大きく開けた口に、春の陽光が奥まで射しこんでいた。  ——この男は白痴ではないのか?  蟇目のあとを追いながら、疾風《はやて》はそう疑っている。  ——もしかしたら、これから自分がどんなめにあわされるのか、それもよく分かっていないのではないか……  庄屋の善衛門は蟇目のことを筋目なき者と呼んだ。つまり身寄りもなく、耕すべき畑地も持たない人間のことである。そんな浮浪者をこれまで村が養ってきたのは、なにか揉め事が起きた場合、これを庄屋の身代わりとしてさしだすためだった。  そうした人間を解死人《げしにん》と呼んでいる。  この時代、家を焼き、解死人をさしだすのはいわば詫び事の儀礼であり、出頭した人間が殺されることは滅多になかったといっていい。  蟇目は頭を丸めることはしなかったが、ふつうは解死人は髪を剃り、入道になって恭順の意を表する。それで領主のほうもいったん詫びを聞きいれ、そこからまた年貢なら年貢の話し合いが再開されるのが、この時代のならわしだった。  だが……  村の家を焼くのに、鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》がよこした狼のような牢人たちのことを考えると、疾風はそのことに一抹の不安をおぼえざるを得なかった。もしかしたら鞍谷刑部は解死人を成敗しようとするのではないか。  鞍谷刑部はお世継ぎ阿君《くまぎみ》さまの祖父であるのをいいことにして、最近、横暴のふるまいが眼につくという。年貢をとりたてるのに十二合升を使おうとしたのもそのあらわれで、もちろん領主朝倉義景の許しを得たうえでのことではない。  ——危ない……  疾風は不安でならなかった。  いまの鞍谷刑部なら、詫び事のならわしを無視して、解死人を誅戮《ちゆうりく》するぐらいのことは平然とやりかねなかった。  そのことが分かっているのかどうか——  蟇目はまったくのどかなものである。その大きな体をヒョイとかがめ、野の花を摘んで、それを疾風のほうにさしだした。 「ありがとう……」  いきなり花をさしだされて、疾風はいつになく顔を赤らめ、それを受け取った。かれんな白い花だった。  すると、蟇目は自分の赤っちゃけた蓬髪《ほうはつ》を指さし、 「アウアウアウ」  花を髪にさせ、というようにしきりにそうくりかえした。 「おまえは口がきけぬのか?」  疾風はそう尋ねたが、それには答えようとはせず、蟇目はなおも自分の髪を指さすばかりである。  やむなく疾風はその花を自分の髪にさした。かすかに甘ずっぱいようなにおいが自分の髪からただようのを感じた。 「アウアウ」  蟇目は嬉しそうにうなずくと、またその大きな背中を向けて、山道を登りはじめた。 「あ、あの蟇目めが、飯田様のお嬢さまにたいしてなんたるけしからぬふるまいを!」  疾風の背後につきしたがっていた庄屋の善衛門がヒッと声をあげて、 「どうかお許しくださりませ。なにぶんあの蟇目、いつもああしてニヤニヤ笑っているばかりで、これまでだれともまともに口をきいたためしのない男でございまして……怒るかいもない者でござりますれば」 「…………」  もちろん疾風に怒りの気持ちはない。ただなんの心配もなげに、フラフラと歩いていく蟇目という男を、これまでにも増して奇異の眼で見るばかりである。  村の解死人となった者は、その後、村の一員となることを許されるのがふつうである。が、この蟇目という男にはどうやらそんな気持ちもないらしく、ただわずかばかりのかねを受け取り、それで飄々《ひようひよう》と死地におもむこうとしているのだ。  なにを考えているのか分からない、いや、そもそもなにかを考えることがあるのかどうか、妙に人間ばなれしたところを感じさせる男だった。  ……一乗谷には寺ばかりではなく、神社も数が多い。  詫び事の場としては、相手の屋敷に出向くよりは、こうした神社が使われることが多かった。詫び事の儀礼は神々の面前でおこなわれるのこそ似つかわしい、そう考えられたためかもしれない。  蟇目には庄屋、それに村の古老百姓たちが何人かつきしたがっている。  部外者である疾風がこれに加わったのは、蟇目という奇妙な男に好奇心を駆られ、強引についてきたからだった。村人たちも相手が有力者飯田仁右衛門の娘とあっては、これをむげに断るわけにもいかなかったようだ。  社といっても、なかば朽ちかけたような社殿がひとつあるだけで、ほとんどが深い森におおわれている。  春の風が強く吹き、頭上に葉擦れの音がさわがしい。  当の蟇目があいかわらずのんきな顔をしているのに比して、これからのことが案じられるのか、さすがに庄屋たちの表情は蒼くこわばっていた。  蟇目を先頭にし、石段を踏んで、その社頭に入っていくと、 「おう、やっとのことで来おったか。あまりに遅いので待ちあぐんでおったわ——」  ふいにそうはずんだ声が聞こえ、森のなかからひとりの男が足をふみだしてきた。    2  どうしてこんなところにこんな男が現れたのか、だれにも分からない。  なりは一応、僧形《そうぎよう》であるが、墨染めの衣は破れ、垢じみていて、乞食のような風体をしている。腰には帯がわりの荒縄を巻いて、そのなかになにを入れているのか、革袋を下げていた。 「遅かったではないか、蟇目《ひきめ》——。あまりに遅いので、こちらから参じねばなるまいか、とそう思案していたところだ」  坊主がそう親しげに声をかけるのに、蟇目もアウアウと、いかにも嬉しそうな表情で応じている。  そんなふたりの仲をどうにも判断しかねているらしく、庄屋たちはいかにも胡乱《うろん》そうな眼を向けている。あからさまに迷惑げな表情を浮かべていた。  庄屋たちはだれもその坊主のことを知らないようだが、疾風は知っている。  いや、知っているといえるかどうか、馬を走らせているときに、一度だけその坊主の姿を見かけたことがあったのだ。  そのときにひどく親しげな視線を自分に向けているような気がして、妙に印象に残ったのだが、いまもときおり疾風に向ける視線には、あたたかな微笑がこもっているように感じられた。どうしてなのか?  蟇目とその坊主とがいつまでも笑いあっているのに、ついに業《ごう》を煮やしたのか、 「これ、坊さまよ——」  そう庄屋が呼びかけた。 「おまえとこの蟇目とがどのような知りあいであるのか、それはわれらのあずかり知らぬことであるが、いまは当方にいささか事情がござってな。済まぬが、その蟇目めをわれらに返してはくれぬか」 「詫び事であろう」  坊主はずけりとそういい、一同の顔に狼狽《ろうばい》の色が浮かぶのを見て、ニヤリと笑いを浮かべた。 「さればよ、それを知っていればこそ、破れ衣からすねを出し、こうして駆けつけてもきたのだ」 「そ、それはどういうことでござるか?」 「なに、わしはこの蟇目のいわば後見人のようなものでな。蟇目が解死人として命を落とすときには、かならず供養をしてやる、そう約束をしたのだ。こんな乞食坊主でも供養をせねばならぬ者がいると思えば、修行のはげみにもなる。神明に誓って、いらざる口出しはせぬゆえ、どうか心よく同行させてもらいたい」 「…………」  庄屋たちはとまどうようにたがいに顔を見あわせた。  疾風についで、今度は旅の坊主、だれもが厭《いと》うはずの詫び事に、こんなにも部外者が加わりたいと申し出るのは前代未聞のことにはちがいない。とっさにはかれらもこれをどうしたらいいのか判断に苦しんだようだ。 「なあ、同行させてくりゃれ。同行させてくりゃれ。迷惑はかけぬゆえ、わしに供養の商《あきな》いをさせてくりゃれ」  坊主はそうせがんだ。中年もなかばにさしかかった坊主が、こどものようにせがむその姿には、なんともいえない滑稽味のようなものが感じられる。憎めない男だった。 「うむ、まあ、よかろう」  庄屋のほうにもわずかなかねを握らせ、蟇目を解死人に押したてる弱みがある。そう頷かざるをえなかったようだ。 「やれ、うれしや、よかったのう、なあ、蟇目——」 「うむ、よかった」  蟇目がそううなずくのを見て、みんな眼をまるくした。  だれもがこれまで蟇目のことを、口のきけない白痴だと信じていたのだ。蟇目がまともにものを喋るのを聞くのは、これがはじめてだった。 「さて、それではそろそろ参ろうとしようかい——」  と坊主がさきにたって歩もうとするのに、 「もし、ご坊、お名前を聞かせてはくださりませぬか」  疾風がそう声をかけた。  自分でもどうしてそんなことを尋ねたのか分からない。ただ、なんとしてもその僧の名前を聞いておかなければならない、どうしてか急にそんな気になったのだ。 「わしはつぶて、はは、このような字を書きまする」  坊主は指で空に、飛、礫、と書き、そのまま疾風に背を向けて、社殿のほうに歩みはじめた。  自分の名を名乗ったとき、飛礫の疾風に向けた眼には、なんともいえず温かな情愛の念が感じられた。 「遅かったではないか。詫び事に来る者が刻限に遅れるなどもってのほかだ!」  いきなりそう罵声《ばせい》をあびせかけられた。  社殿のまえにはすでにあの牢人たちがたむろしている。  粗衣、素足に草履《ぞうり》ばきの、あいかわらずの狼牢人たちだ。それが庄屋たちの姿を見るなり、てんでに肩をいからせ、牙を剥いた。 「うぬら、百姓のぶんざいで武士を待たせるとは、思いあがりもたいがいにせよ」 「われらが思いあがっているなど滅相もございません。ご覧のとおり、解死人を同行し、かく参上つかまつりました。われら一同、頸をさしのべ降参つかまつります。ひらにご容赦を——」  庄屋たちは地面に平ぐものように這いつくばった。  庄屋たちがあわれなほど卑屈にふるまっているのにたいし、蟇目、それに飛礫のふたりは地べたにすわってはいるものの、べつに頭を下げようともせず、われ関せずといったキョトンとした表情をしている。  このふたりの男にはまるで人外からさまよい込んできたような、なんともいえぬおかしみのようなものが感じられる。庄屋たちが悲痛にふるまえばふるまうほど、その対照の妙がきわだってくるようだった。  ——おかしな者たちだ……  疾風はクスリと笑った。  自分が顔を出しては、ことがこじれるばかりだ、そう考え、疾風ひとりは樹のかげに身を隠している。そうして自分ひとりが圏外に身をおいていると、なおさらふたりの男の滑稽さが眼につくようだった。  が……  事態はふたりの男の滑稽さを笑ってばかりはいられない方向に進んでいった。 「いいか、よく聞け。鞍谷刑部さまはこう仰せられた——」  武士のひとりがこう叫んだのだ。 「うぬらの詫び事、聞きいれることまかりならぬ。百姓の身をもって、主の命にそむくなど言語道断、その罪、断じて許せるものではない。かくなるうえはさらに十石の加増を申しつける。さよう心得よ!」  ゲッ、というような声が庄屋の喉から洩れた。その顔が蒼白になっている。  年貢の総額は五十石あまり、と相場は決まっているが、その年ごとに作況が勘案され、欠損分や不作分などがさし引かれるのがふつうだった。これがつまり�年の免�であるが、十石の加増はそうした年の免をいっさい認めない重い年貢だった。 「そ、それはあまりに無体《むたい》な。いや、無法というものでございます。このうえさらに十石を加増されたのでは、われら暮らしがたちゆかなくなりまする。そればかりは、そればかりはお許しを、なにとぞ鞍谷さまにおとりなしのほどを。なにとぞ、なにとぞ——」  庄屋が必死の声をあげて、そうにじり寄ろうとするのを、 「えい、黙れ!」  牢人は足をあげ、その面を蹴った。  あっ、と悲鳴をあげ、庄屋はその場に倒れふし、牢人たちはドッと笑い声をあげた。  そのとき疾風は自分のなかでなにかがプツリと音をたてて切れるのを感じた。  相手は世継ぎの祖父、鞍谷刑部の手の者だ、と思えばこそ、これまでジッと耐えてもきたのだ。その忍耐がついに破れ、自分でもそうと意識しないまま、体のほうが勝手に動いていた。  剣を抜きはらい、牢人たちのほうに走っていった。  庄屋を蹴った牢人は一瞬、自分の身になにが起ころうとしているのか理解できなかったようだ。あんぐりと口をひらいたその顔が醜かった。  その牢人とすれちがいざま、すばやく手首をかえした。きらり、刀身が春の陽光をはねて、その刀尖があざやかに牢人のすねをかすめている。血しぶきが舞った。 「わあっ」  牢人はだらしなく悲鳴をあげ、その場に尻餅をついている。  悲鳴こそ大仰だったが、実際にはすねの皮膚を浅く削《そ》がれたにすぎない。その程度の傷で悲鳴をあげるのは、その牢人がいかに臆病であるか、それを如実にしめしているようなものだった。  疾風はそのまま走り抜け、すかさず場所を転じて、刃で地を擦るような、低い下段にかまえた。 「汝《われ》ア」 「こ、小娘!」  仲間が傷つけられたことに、牢人たちはどよめいたが、相手が子供であり、しかも女であるということに眩惑され、とっさには剣に手をかけようともしなかった。  なりは武士でも、しょせんは地子《じし》がはらえずに逃散した者か、雑兵あがり、まだ十二歳とはいえ、深甚《しんじん》流兵法を修行した疾風の相手ではなかったかもしれない。 「ちっ!」  それでもひとりが腰の刀に手をかけようとしたが——  疾風はすばやく跳躍し、鶺鴒《せきれい》がピンと尾をはねあげるように、下段から斜めうえに刀尖を運んだ。剣光があざやかに半弧をえがき、その男の右手をかすめ、パッと血しぶきを撒いた。 「わあっ」  その男もだらしなく右手をかかえこんで、その場に尻餅をついている。  あとは三人を余すのみ——  自分が斬った男には眼もくれず、疾風は刀尖を空に向け、青眼にかまえたまま、牢人たちのあいだにツツッと踏みこんでいった。  しょせんは十二歳、しかもなんといっても非力な女の身であり、師匠の草深甚四郎にはすばやく試合を運ぶこと、そのことだけをくどいほど教えこまれている。  試合が長びけば長びくほど、疲労がつのり、太刀筋が鈍ってくるのをまぬがれることはできない。それを避けるためには、絶えず激しく動きまわり、相手に一瞬の猶予もあたえないことである。——その教えは疾風の体にたたきこまれていた。  疾風が踏みこんでいくのに狼狽し、牢人たちはこけつまろびつして、左右に別れ、ひとりの男などはそのまま無様《ぶざま》に転倒している。  疾風はその転んだ男にすかさず横なぐりの一撃を放っている。 「わっ」  疾風の剣をかろうじて鍔《つば》元で受けとめ、その男は悲鳴のような声をあげた。  そのとき…… 「相手はたかが小娘ひとりではないか。醜態をさらすのもたいがいにせぬか」  そう声がして、ぎいっ、社殿の格子戸《こうしど》のきしむ音が聞こえてきた。そして、ひとりの男がぬれ縁に立ちはだかった。  山伏の姿をしている。この時代の兵法者にはこうしたなりをしている者が多く、その男もそのひとりであるらしかった。  なめした革のように黒い肌をして、眼光がするどかった。痩せてはいるが、筋肉はひきしまっていて、その足の運び、眼のくばりにただものではない凄味のようなものを感じさせた。 「うぬら、小娘ひとりになにを手間どっているのだ。醜態をさらすのもたいがいにせい」  そうくりかえすと、ニヤリと笑いを浮かべる。残忍な猛禽《もうきん》を思わせる笑いだった。 「とはいうものの、その小娘、なかなかの手練《てだれ》。うぬらがてこずるのもあながち責めるわけにはいかぬわい」 「…………」  疾風は腰を低く落とし、刀を地に擦る下段のかまえをとっている。自分でも汗が冷たく凍《い》てつくようなのを感じていた。  たちあうまでもなく、この男がほかの牢人たちとは比べものにならないほどのうでを持っていることは明らかだった。疾風の刀術などまだ未熟そのものだが、それでも相手の人間がどれほどの技量を持っているか、それぐらいのことは見抜くことができる。  ——とてもこの男にはかなわない。  そんな冷たい絶望感がきりきりと胸を締めつけてきた。おそらく捨身でかかっても、相打ちに持っていくことさえ難しいにちがいない。 「おまえの太刀筋、深甚流剣法と見た。飯田仁右衛門の娘が女だてらに深甚流の兵法をまなんで、まだ若年ながら、その刀術、達人の城に達している、といううわさを聞いたことがある。はは、そのうわさ、いささか大げさであったようだな……」 「なに、飯田仁右衛門の娘——」  牢人たちが驚愕にざわめくのを、 「うろたえるな、馬鹿ども、飯田仁右衛門ごときがなにほどのことがある。われらはお世継ぎ阿君《くまぎみ》さまのご祖父、鞍谷刑部さまにお仕えする身ではないか」  そう一喝し、男はトンと身軽に地面に降りたった。 「それにしても解《げ》せぬ。小娘、なにゆえ飯田仁右衛門の娘が百姓などに肩入れをするのだ?」 「百姓どもにどのような不都合があったにせよ、こうして詫び事に参った者を足蹴にするとはあまりに無法、いかに鞍谷刑部さまの手の者とはいえ、わたしはこれを見過ごしにはできぬ」  ともすれば萎縮しそうになる自分を精いっぱい励まし、疾風はそう叫んでいる。 「なるほど、百姓どもに同情したか。さりとは情け深いことだ。だが、不憫《ふびん》なり、その同情があだになり、あたらつぼみの命を散らすことになるわい」  男はそうせせら笑い、 「おれの名は閻魔冥官《えんまめいかん》、剣聖塚原卜伝さまに一の太刀の秘奥をさずかり、まずは新当流の奥義をきわめた男だ。小娘、深甚流がどれほどのものか、このおれがみきわめてくれようぞ」  閻魔冥官、——もちろん本名ではないだろうが、この時代、こうした鬼面人をおどす名乗りをあげる兵法者は少なくなかった。  たとえば山中鹿之介の配下にはこうした名前の男たちがいたという。   容赦無手助《ようしやむてのすけ》   破骨障子之助《やぶれぼねしようじのすけ》   草葉《くさば》百手《むかで》之助《のすけ》   尤道理之助《もつともどうりのすけ》  諸国を流浪する兵法者たちはしょせん自分を高く売りつけるのが稼業であり、そのためには一風かわった名を名乗るのが便利だったのである。  この男が師事したという塚原卜伝、いまはもう七十を越した老齢のはずであるが、その卜伝にしてからが、諸国修行のさいには八十人ばかりの門弟を引きつれ、つねに大鷹三羽を供にした、という派手な演出をおこなっている。  すべては売名のためであり、それを考えれば、閻魔冥官などという名を名乗るのはまだしもかわいいといえる。  が、もちろん現実には、閻魔冥官はかわいいなどというなまやさしい男ではない。  そのみるからに剽悍《ひようかん》な体つき、冷酷そうな眼つきは、さすがの疾風をも金縛りにしている。  あるいは冥官が塚原卜伝の門弟だと名乗ったことが、なおさら疾風を萎縮させているのかもしれない。  疾風の師、草深甚四郎は俗に深甚流と呼ばれる流派をおこした達人であるが、その甚四郎が生涯にただ一度やぶれた相手が、ほかならぬ塚原卜伝なのである。  草深甚四郎は昨年病死しているが、ついに疾風は生前、師から塚原卜伝との試合の話を聞かされたことがなかった。そのことが逆に疾風には塚原卜伝という兵法者の怖さをものがたっているように感じられたものだ。  相手はその塚原卜伝の門弟、なんといっても疾風はまだ年若く、この勝負は戦うまえから完全に冥官に圧倒されていたといえる。 「師がやぶれたなら弟子もやぶれるのが礼儀であろう。塚原さま伝授の一の太刀、深甚流をまなんだうぬが新当流にやぶれるのも前世からの因縁と思え」  冥官はその歯を剥きだし、獰猛《どうもう》な笑いを浮かべた。  そして腰の刀を抜こうともせず、そのままスルスルと歩み寄ってくる。 「うぬっ」  疾風は声をあげ、飛びすさり、飛びすさりしたが、どうにも冥官との間合いをひらくことができなかった。  冥官はまるで幻術《めくらまし》でもあやつるように、ピタリと疾風に身を寄せ、妖鳥がはばたく影のように、しだいにその姿が大きくせまってくるのだった……。    3  塚原卜伝の一の太刀——  これは唯授《ゆいじゆ》一人といわれ、じつは一代にただひとりの後継者にしか伝えられないたてまえになっている。  これをたてまえというのは、唯授一人といいながら、卜伝は何人もの人間にこの一の太刀をつたえたふしがあるからだが、これらはすべて口伝《くでん》でつたえられた。  塚原卜伝はもともと鹿島神宮の神官の家に生まれ、実父の卜部《うらべ》覚賢は先祖代々の鹿島の太刀の秘伝をつたえて鹿島中古流を称している。  常陸・鹿島神宮の祭神は武甕槌神《たけみかづちのみこと》、日本古来から武術の神とされている。  卜伝もまた鹿島神宮に千日の参籠《さんろう》をし、神感を受け、新当流を創始したとつたえられている。  後継者を唯授一人とさだめ、これに一の太刀の極意、奥義を口伝でつたえる。——もともと卜伝にはこうした神がかりの演出を好む下地があったのである。  が、塚原卜伝にやや演出過剰のきらいがあるとしても、かれが優れた兵法者であり、その一の太刀が精妙きわまりない刀術であることは間違いない。  この一の太刀、なにしろ口伝でつたえられてきたために、それがどんなものであったか現代では知りようがない。  一の太刀には三段の見切りがあり、第一は天の時、第二は地の利、第三の奥義は人の和と工夫、——そう説かれているが、これがどんなものであるのか具体的にはなにもつたえられていないのである。  太刀を振りおろす瞬間、天、地、人の三段の見切りをきわめ、ただ一太刀で敵をたおし、二の太刀は使わない。  おそらくそうしたものではなかったか、と思われるのだが、それを証する文書のようなものはなにも残されていないのだ。  とにかく一の太刀がおそるべき刀術であることは間違いない。  深甚流をまなんだといっても、じゃっかん十二歳、修行なかばの身である疾風がこれに抗することができるはずはなかった。  やつぎばやに踏み込み、踏み込んでくる冥官の動きは速く、まだ刀を腰に帯びたままだというのに、その姿には圧倒的な迫力をみなぎらせている。  人間ばなれした気迫であり、その迅速きわまりない動きに、疾風は体勢をたてなおす余裕もなく、ただひたすら後退していくほかはなかった。  が、それにしても背後の石段に気がつかなかったのは、弁明の余地のない失敗といわなければならない。  踵《かかと》が石段にかかり、 「あっ」  うかつにも疾風は体勢を崩している。  思いがけなくグラリと体が傾いて、しまった! という絶望の叫びを胸のなかで発している。  顔から血の気が引いて、眼のまえが暗くなるのを感じた。  冥官は笑い声をあげ、すかさず地を蹴ると、高々と跳躍した。その右手が閃光がひらめくように刀の柄頭に飛んだ。  この瞬間、疾風は自分が斬られるのを覚悟したはずである。体に刀が食いこんでくる冷たい感触をまざまざと感じさえした。  が……  冥官は空中でクルリと身を転じると、刀をなかばまで鞘《さや》ぐるみ引き抜いたのだ。  かっ、と乾いた音がして、鞘から小石がはじき飛ばされるのが見えた。  だれかが礫《つぶて》を打ち、それを冥官が鞘でふせいだのだ。疾風がそれを知ったときには、もう冥官は地に降りたっていた。  礫を打ったのは、あの飛礫《つぶて》と名乗った旅の僧だ、そのときになってようやく疾風はそのことに気がついている。 「坊主、いらざる邪魔だてをいたすな。うぬのつぶて、どれほどのものか知らぬが、しょせんは下郎の術、わが新当流に通用するはずがないわ」  冥官の声には冷たい怒りの響きがこもっていた。  そのことばとは裏腹に、冥官の緊張した声は、僧の打ったつぶてがなかなかもって侮《あなど》りがたいものであったことをはっきりとものがたっていた。 「邪魔だてするなど滅相もない。当方にはそんなつもりはさらさらござらぬのでな。ただどちら様もこちらに蟇目《ひきめ》がひかえているのをお忘れのご様子なので、それを思い出していただこうとしたまでのこと。他意はござらぬよ——」  飛礫はそうにこやかに応じると、かたわらの蟇目のほうに顔を向けた。 「蟇目——」 「おいよ」  蟇目の声はのどかそのものだった。 「解死人のおまえがいるのに、この騒ぎ、村の衆にも疾風さまにも面目がたたぬと思わぬか」 「さればよ、わしもさきほどからそれを考えていた。これでは解死人が解死人にならぬ。一年ものあいだ、村の衆にかわいがっていただいたわしの一分がたたぬわい」 「考えるまでもなかろう。おまえは解死人ではないか」 「そうさな、たしかに考えるまでもない。解死人のお役目はただひとつ、死ぬことであったわい」  蟇目の声にはいささかも緊張感がない。その表情はあいかわらず春の風のように駘蕩《たいとう》としている。  それだけに、 「ぐふっ」  蟇目が襤褸《ぼろ》のなかから一ふりの短刀を取りだし、それで無造作に自分の頸をかき切ったときには、その場にいただれもが愕然とせざるを得なかった。  ピュッ、と血が噴き出し、それが春の陽光のなかに赤い霞をたなびかせる。  人間がこんなにも無造作に死を選べるものか。うらうらと春の日差しがおだやかなだけになおさら、蟇目のしたことは現実のものとは思えず、悪夢めいたものに感じられた。  蟇目はゆらゆらと体を揺らしながら、冥官のほうを見て、ニッと笑いを浮かべた。  さすがの冥官が、その笑いには青ざめ、後ずさりをしている。  次の瞬間、巨木が崩れるように、蟇目の体はドッと地に伏した。  その体から地面にゆるやかに血がひろがっていった。 「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ——」  飛礫は片手をあげ、そう口のなかで名号をとなえると、 「ご覧のとおり、蟇目めは解死人としてかく見事にあい果てました。このうえは百姓衆の神妙のほど、おん守護さまにお伝えいただき、なにとぞよろしくおとりはからいくだされますよう、愚僧、頸をさしのべてお願い申しあげまする」 「…………」  もちろんこれは牢人たちには思いもよらない結末だったにちがいない。  解死人がみずから死んでしまったとあっては、この時代の通例として、これ以上、百姓たちを責めたてるわけにはいかない。どんなにこれを忌《い》まいましく思ったにしても、とりあえず詫び事が済んだことを、主に伝えなければならなかった。 「よし、わかった——」  さすがに閻魔冥官はほかの牢人たちよりも動揺からたちなおるのが早かった。スッと草履を運んで、後ずさっていき、 「だが、これで十石の加増の件、沙汰やみになったなどと安堵するでないぞ。鞍谷刑部さまがなんと仰せられるか、すべてはそれからのことだ。たかが解死人ひとりの命、それで年貢が免じられようはずがないわ」  そう憎々しげにいい放つと、そのまま疾風に背を向けて、ゆっくりと石段を降りていった。  ほかの牢人たちはどうしていいのかわからないように、一瞬、たがいに顔を見あわせたが、すぐに慌てふためいて冥官のあとを追った。  あとにはただ庄屋たちと疾風、それに飛礫だけが残されている。  だれもがあまりにあっけなく蟇目が頸をかき切ったことに呆然とし、しばらくは口をきく気力もないようだった。  そのしんと凍てついた静寂のなかに、ただ飛礫のとなえる名号の声だけが、ブツブツと眠たげに聞こえてくる。  疾風もまた呆然としていたが、その虚脱感のなかにしだいに閻魔冥官に屈した悔しさが膨らんでくるようだった。  これまで自分の刀術にそれなりに自信を持っていただけに、その悔しさは耐えがたく、胆汁のように苦いものに感じられる。  疾風は無意識のうちに自分の髪の毛に手をやった。蟇目がくれた花にソッと指を這わせる。  ——わたしが非力だったために、むざむざ蟇目を死なせてしまった……  悔やんでも悔やみきれない思いだった。噛みしめた唇に血が滲んでいるのが自分でもわかった。 「お案じめされるな、疾風さま。あなた様がお心をお痛めになるようなことはなにひとつござりませぬぞ——」  飛礫がそう声をかけてきたが、いまの疾風にはそれもたんなる気休めのことばとしか聞こえなかった。    4  その夜……  飯田仁右衛門は朝倉義景の館を辞して、自分の山城に向かっている。  仁右衛門の城は一乗谷の東、標高四三七メートルの一乗城山に築かれている。  城下から山城に向かうには町屋群と武家屋敷のあいだを抜け、人気のない山道を歩いていかなければならない。  飯田仁右衛門はこのとき五十代にさしかかったばかり、その穏和、冷静沈着な人柄は家中の信頼を一身に集めている。指導力にも抜群のものがあり、その力量はかつて朝倉家の至宝といわれた朝倉宋滴になぞらえる者さえ少なくない。  春の夜、おぼろに月はかすんで、闇のなかにもしらじらとしたほの明かりのようなものが感じられる。  仁右衛門、それに供の者がふたり、灯もともさずに、そうした闇のなかを黙々と歩んでいるのだ。  すでに町屋はとぎれ、片側は一乗谷川の川原、もう一方はやや低くなっていて、そこには耕されていない畑地がひろがっている。  もちろんその三人をおいて、そこを行き来する人影はひとりもいなかった。  いや、ひとりもいないはずだったのだが……  ふいに川原のほうから数人の武士が山道に駆けあがってきたのだ。いずれも抜刀し、覆面で顔を覆《おお》っている。 「飯田仁右衛門!」  武士たちはすばやく仁右衛門たちの行く手をさえぎり、そのなかのひとりがそう大声で叫んだ。  仁右衛門たちは静かに足をとめた。べつに動揺しているようでもなく、相手がだれであるのか、それを闇のなかで見さだめようとしているようだった。 「うぬは飯田仁右衛門に相違あるまいな」  男が念を押すようにそういうのに、 「たしかにわしは飯田仁右衛門に相違ないが、ひとの名をたしかめようとするからには、まずそのまえに自分の名を名乗るのが礼儀であろう」 「しえっ! 小賢《こざか》しい口をききおって。死んでいく者になんの名乗りの礼儀が要《い》るものか——」 「死んでいく者? おまえたちはわしの命を奪おうとしているのか」 「そうさ、一命を申しうけるため、わざわざここまで出向いてきたのだ」  男が勢いこんでそう叫ぶのに、仁右衛門はいささかも動じる気配がなく、それどころかうっすらと笑いを浮かべさえしたようだ。 「たった一つしかない命だ。むざむざくれてやるのはいかにも惜しい。そういうことなら、どうやら当方も手向かいせざるを得ないようだな」  その落ち着いた声に、逆に襲撃者たちのほうがたじろいだようだった。仁右衛門たちをとりかこんでいる白刃にわずかにふるえが走った。 「お師匠さま——」  そのとき闇のなかに若々しく、明るい声が聞こえてきた。 「この者たち、おれが斬り捨ててもよろしゅうございますか」  多数の敵を相手にまわし、なんの屈託もない声だった。その気にさえなれば、こんな男たちなどたやすく斬りふせることができる、そんな絶対的な自信にあふれていた。 「いや、小次郎、おまえは出ぬほうがいい。おまえが出たのではやりすぎることになる。飯田さまをお護りして、そこにおとなしくひかえているのだ——」  そうべつの声が聞こえてきた。今度は深沈として、さびを含んだ、老いた声のようだった。 「命を惜しむ者はいますぐこの場を立ち去るがよい。このままおとなしく立ち去るのであれば、おまえたちがだれであるか、何者に命ぜられ、飯田仁右衛門さまのお命をねらうのであるか、それは問わずにおいてやる」 「あらためて問いただすまでもあるまいよ。家中のだれがわしを邪魔者にし、亡き者にせんとはかっているか、およその見当はついている——」  とこれは飯田仁右衛門だった。  よほど自分の供の者のうでに信頼をいだいているらしく、その声には微塵も不安の響きが感じられない。かすかに笑いさえ含んだ、余裕のある声だった。 「けっ、いわしておけば好き勝手なことをほざきおって! われらは五人、うぬらはわずかに三人、なにゆえもってわれらが敗れることがあろうか」  そう男がわめき声をあげるのに、 「それはわしがわしだからだ」  老いた声がそう応じて、その人影がおぼろな月明かりのなかにゆっくりと足を踏み出してきた。 「と、富田勢源《とだせいげん》!」  悲鳴のような声が男たちのあいだを駆け抜けた。  まさしく富田勢源、——中条流のながれを組んで、中太刀、小太刀の精妙な刀術をあみだした富田流の創始、盲目の兵法者として天下に名高い富田五郎左衛門勢源そのひとであった。 「左様、わしは富田勢源だ。わしを富田勢源と知ったうえで、それでもなお飯田仁右衛門さまのお命が欲しいと申すのか」  このとき富田勢源はまだ五十にはなっていないはずだが、ふしぎに俗人ばなれしたものを感じさせ、兵法者というより、高僧のような高潔な風韻をただよわせている。  それでいてこの人物がすさまじい技量を持つ兵法者であるのは、これまでにも数多くの兵法者に試合をいどまれ、これをことごとく討ちはたしたことからも、まず疑いようのない事実であった。  その富田勢源に立ちふさがれ、一瞬、襲撃者たちもひるんだようだったが、 「ええい、相手はたかが眼の見えぬ老いぼれひとりではないか。なにほどのことがある。かかれ、かかれ!」  ひとりがそう狂ったように叫んで、男たちはかけ声を発し、つづけざまに勢源に斬りかかっていった。  が……  勢源はその場を動きさえしなかった。  声のない気合を発すると、その腰から銀光がほとばしり、それが月の光を集め、あざやかに半弧をえがいた。ひとりは胴を斬られ、もうひとりは肩から脇の下までを斬りさげられて、血しぶきをあげながら、ものもいわずにドウッと地に沈んでいった。  これは兵法の達人などというなまやさしいものではない。とてつもない太刀筋の速さ、それはほとんど閃光がひらめくのにも似た、すさまじいばかりの神技だった。  もちろん残りの三人にさらに斬りかかっていく気力があるはずはなかった。 「うわあああ!」  だらしのない悲鳴をあげ、飛びすさり、三人が三人ともに尻餅をついている。あまりの勢源のものすごさに、三人ともが鬢《びん》の毛を逆だたせ、蒼白になって、ガタガタと歯の根を鳴らしていた。 「まだやるつもりがあるか」  勢源が静かにそう尋ねるのに、三人の男たちはいやいやをするように首を振った。 「それなら去《い》ぬるがよい。逃げるなら、あとは追わぬ」  ちん、と鍔を鳴らして、勢源は刀を腰におさめた。  そして飯田仁右衛門のほうを見る。仁右衛門はうなずくと、地面に這いつくばっている男たちのほうには眼もくれずに、そのまま歩き出そうとした。  そのとき…… 「いやはや、まったくもって頼みがいのない奴ら、わが手の者ながら、ほとほと愛想のつきはてる思いがするわい」  ふいに闇のなかからそう声が聞こえてきた。  しゃあっ、さっき小次郎と呼ばれた若者がそうするどく息を放つと、三メートルあまりを飛びすさった。  兵法者であれば闇のなかにぶ厚くふくらんでいる殺気に気がついて当然だった。凍てつく寒風のようにすさまじい殺気。——富田勢源がそれに静かに向かいあい、小次郎が狼狽して飛びすさったのはやはり師弟の違いというべきだったか。  川原の土手にゆらりと白い影が浮かびあがるのが見えた。どうやらその男は山伏のなりをしているようだ。 「さすがに富田勢源、惚れぼれとするような刀術だ。まずはよいものを見せてもらった、と礼をいわねばなるまいな」 「おまえも兵法者か。おなじく兵法をこころざす者であれば、まずはおのれの名を名乗るのが礼儀であろう」  富田勢源の声は落ち着いていた。 「礼儀か。はは、兵法者の礼儀は立ちあうことにあるのではないか。そのときにはおれも尋常に名乗りをあげてみせよう」 「なんなら、いまこの場で立ちあってもいいのだが——」 「まあ、やめておこうよ。めあきとは不便なものでな、夜の闇ではとんと体の自由がきかぬ。いずれまた日の光の明るいときに一手おてあわせを願うことにしよう」  馬鹿にしたような笑いを残し、声の主は川原を遠ざかっていった。 「お師匠さま、あとを追いましょうか」  小次郎がそう勢いこんで尋ねるのに、 「やめておいたほうが無難だろう。あの男、尋常の遺い手ではない。もしかしたらおまえでもあの男に勝つのは難しいかもしれぬ」  勢源は静かにかぶりを振ると、自分たちを待っている飯田仁右衛門のほうに、そのままゆっくりと足を運んでいった。  第四章 剣士・秋月小次郎    1 「買わんか、買わんか——」  物売りの声がしきりに飛びかっている。  ここは一乗谷の町家群。  鍛冶《かじ》屋、鋳物師、数珠屋、檜物《ひもの》師、酒の醸造業、紺屋……  武家屋敷に面し、谷あいの道路にそうした商家がひしめきあい、そのにぎやかなことはほかに類がない。  ——京の都にもひけをとらぬ。  一乗谷の人々はそうして自慢をするが、それもあながち誇張とばかりはいえない。  派兵することはあっても、いまだかつて攻めこまれたことがない。越前の国はこの戦国の世に、六十年あまりも戦乱を経験していないのである。  商家はそれぞれに店棚を前面に出し、道行く人に大声で呼びかけている。品物があふれ、人々の表情もみな一様に明るかった。  平和で、活気に満ちた風景だった。  ふいに道行く人々のあいだに、 「小少将さまだ、小少将さまだ——」  そんな囁きがかわされ、それがさざなみのように町を伝わっていった。  諏訪《すわ》館から一|梃《ちよう》の輿《こし》が出てきた。  諏訪館、——朝倉館から南におよそ二百メートル、諏訪谷に位置し、ここは朝倉義景が愛妾の小少将に与えた館だった。  輿には小少将が乗っているはずである。女中たち、それに供廻りの侍たち、総勢で三十名ほどの華やかな行列だった。  諏訪館を出て、一乗谷川を渡り、そのまま町家群の道にさしかかる。  小少将はまだ十五歳、春の野山を見るのが好きな少女だった。今日もまた、供の者を連れ、一乗山に向かうつもりにちがいない。  だが……  ふいに列の先頭のほうから狼狽したような声があがった。それまで輿のまわりを整然と歩んでいた供の者が何人か、慌てふためいてそちらのほうに走っていった。  朝倉館からもやはり供の者を連れた輿が出てきて、おりあしくこのふたりの行列が行きあってしまったのである。  一乗谷の道はそれほど広くはなく、どちらかが譲らなければ、行列はふたつながら立ち往生してしまう。  本来ならば、さきに道に出ていた小少将の行列のほうに優先権があるはずだ。朝倉館のまえには馬場がある。もうひとつの行列は一乗谷川の橋を渡らずに、小少将の行列をやりすごし、その馬場で待つべきだった。  が、もちろんこれはどちらが先に道に踏み出していたか、という優先権の問題などではない。 「おさがりなさい、お世継ぎ阿君《くまぎみ》さまのお輿をさえぎるなど、無礼にもほどがありましょう——」  そう高飛車な女の声が聞こえてきた。  阿君の乳母、福岡|石見守《いわみのかみ》の娘おしまの声である。その声は必要以上にたかく、供の女中に言い聞かせているようで、そのじつ、輿のなかの小少将に聞かせるつもりであるのは明らかだった。  おしまは権高な女だった。  小宰相《こさいしよう》の局《つぼね》が生きていたときには、阿君の乳母として全面的に信頼されていて、小宰相が死んだいまも、そのことを鼻にかけているふしがある。  だれよりも小宰相の局に忠実だったおしまにとって、彼女が死んだのち、主君の妾になった小少将は、いわばかたきのようにも思えるらしかった。世継ぎの阿君の乳母であるのをいいことにして、なにかにつけて小少将を軽んじるふるまいに出る。  いまも、 「下がれ、ええい、下がらぬか——」  阿君の輿の横に立ちはだかり、そう大声で叫んでいるおしまの表情には、小少将にたいする憎しみの念がありありと浮かびあがっているようだった。  もちろん小少将の供の者たちは下がるつもりでいる。いかに小少将が主君の寵愛を一身にあびているからといって、しょせん側室は側室、世継ぎの阿君をさしおいて、さきに列を進められるはずがなかった。  が、なにぶんにも狭い道で、とりあつかいにやっかいな輿を運んで、そうすぐには引き返せるものではない。小少将の供の者は慌てふためいて、ただいたずらに右往左往するばかりだった。 「ほほ、阿君さま、ご覧なされませ、あの者たちのうろたえよう、なんと無様な——」  おしまのいかにも小気味よさそうな笑い声が聞こえてきた。底意地のわるさが透けて感じられるような笑い声だった。  おしまはわざわざ輿の垂れをあげて、この騒ぎをなかの阿君に見せているようだ。  阿君はまだ五歳、こんなことをおもしろがるような年齢ではないはずだが、それをことさら見せつけるところに、おしまの悪意がうかがわれるようだった。 「輿を返せ、館にもどる」  輿のなかからそう小少将の声が聞こえてきた。  そのいつになく厳しい声音に、供の者たちはいっそううろたえたが、 「なにをしておるのじゃ、はやく輿を返さぬか」  そう叱声をあびせかけられ、やむなく後ずさりの無様な姿勢で、そのまま輿を諏訪館に運んでいった。 「小少将さま、いかに阿君さまの乳母とはいえ、しょせんは卑しい身分のおしまめが、あのように人もなげなふるまい、さぞかしお怒りでございましょう——」  女中のひとりが唇を震わせてそういったが、輿のなかから小少将の返事の声は聞こえてこなかった。  いつもは天真爛漫といっていい小少将だけに、返事をしないことが、なおさらその怒りの深さを物語っているようで、女中はことばの継ぎ穂をうしなった。  諏訪館に戻っていく小少将の輿をしり目にして、阿君の一行は勝ちほこったように、列を進めていった。  正室側と、側室側との葛藤、——それはこの時代、いずれの家中でも多かれ少なかれ見うけられる、ありふれた女の戦いにすぎなかった。  それは朝倉家にとって、たしかに困ったことではあったが、正室の小宰相の局が死んでいることでもあり、だれもそれを深刻に受け取ろうとはしなかった。  まさかそれが朝倉家の存亡にもかかわる大事件に発展していこうとは、だれひとり予想さえしなかったのである……  うぐいすの声が聞こえている。  ここは諏訪館の庭園、——京都銀閣寺を模したという一乗谷で最大の庭園である。  山肌から湧く清水を滝にして落とし、池を満たして、さらにはその水を分水石で左右に流している。四メートルを越す滝副石、豪壮な石橋なども配されていて、まさにこの時代の造園技術の粋を集めた庭園だといえた。  これがただ小少将ひとりのために造られたのだから、いかに朝倉義景がこの少女を愛しているか、それも分かろうというものだ。  いつも小少将はこの庭園を歩くとき、義景の深い愛情を肌に感じ、そのことを誇らしく思わずにはいられない。  だが……  いま、供の者たちを追い払い、ひとりで庭園を歩いている彼女の胸には、そんな誇らしさなど微塵もなかった。  咲きみだれる花の美しさも、湧泉のきよらかさも、彼女の眼にはなんの楽しみも与えてはくれなかった。  いや、いまはそんな庭園の美しさが厭《いと》わしいものにさえ感じられる。  世継ぎの阿君の権威をかさにきて、乳母のおしまにいいようにあしらわれた屈辱感が、小少将の胸にはふつふつと煮えたぎっているのである。  ——おのれ、どうしてくれよう。  小少将は唇を噛みしめている。  もちろん義景に頼んで、おしまに罰を与えることも考えないではなかった。  しかし義景は阿君を溺愛しており、いくら小少将の頼みでも、そんなことを聞き入れてくれようはずがなかった。側室が正妻の世継ぎに敬意をはらうのは当然のことであり、そのかぎりでは、おしまにはなんの落度もないのである。  なにより、領主の側室である小少将が、いかに阿君の乳母とはいえ、たかだか侍女にすぎない女を相手にして、本気で怒るのは誇りが許さなかった。それは自分の身分にそぐわない、いかにもはしたないことであるように思われる。  領主の寵愛を一身に集め、この世でなにひとつかなわぬことがないはずの小少将が、あの乳母ひとりだけはどうにも手をつけかねているのだ。そのことが悔しくてならず、小少将は激しい動悸に胸が苦しくなるほどの怒りにみまわれていた。  ——わたしも稚児《わこ》を生めばよい。  そう考えないでもない。  が、稚児を生んだからといって、それでどうなるというものではない。よしんばそれが男児であっても、側室の子はどこまでも側室の子にすぎず、阿君をさしおいて、朝倉家の世継ぎになれるはずがなかった。  ——阿君さまがお隠れになれば……そうであれば……  フッとそんな考えが頭をかすめた。  自分が考えていることの恐ろしさに、一瞬、小少将はたじろいだが、いったん胸に浮かんだ恐ろしい考えはもう消え去ろうとはしなかった。  小少将はその場に立ちすくんでいる。いつもは無邪気なこの十五歳の娘が、いまは別人のように険しい表情になっていた。  ——そう、もし阿君さまがお隠れになれば……そして、そのときわたしに稚児がさずかっていれば……  毒汁がしたたるように、その恐ろしい思いは小少将の胸に満ちていった。  魔に魅入《みい》られた瞬間、——その一瞬の間隙を縫って、悪魔が小少将の胸にスルリと滑りこんできたのだ。  そのとき口笛に似た音が聞こえてきた。  ——鷽《うそ》鳥が鳴いている。  小少将はそう考えている。そのことになんの疑いも持っていない。  鷽鳥の鳴き声は遠く、近く、いつまでもとぎれることなく聞こえている。  聞くとはなしに、その鷽鳥の鳴き声を聞いているうちに、小少将はしだいに意識が空白になっていくのを感じていた。  その鳴き声に引き寄せられるようにしてフラフラと歩きだしている。まるで夢のなかをさまようような、いかにも頼りなげな足どりだが、彼女自身はそのことに気がついてはいなかった。  小少将はいつしか庭園の奥のほうにさまよい込んでいた。  小少将のまわりには、名も知らぬ紫色の花があでやかに咲きみだれている。その花粉のにおいがむせかえるように濃く、体の芯のほうに疼くような陶酔感をおぼえた。  ——諏訪館にこんなところがあったろうか?  小少将はそう訝《いぶか》ったが、いまはそのことをつきつめて考えるだけの気力がない。  夢見心地、頭のなかにぼんやりとカスミがかかったようで、自分がいまなにをしようとしているのか、まったく現実感にとぼしかった。  鷽鳥のするどい鳴き声。——いまの小少将には、そのぼんやりとした意識のなかで、それだけが唯一、現実感のあるもののように思われるのだ。  そのとき……  築山のかげからひとりの男が現れ、小少将のまえにゆらりと立ちはだかった。 「よう、おいでなされた。小少将さま、お待ち申し上げておりました——」  と、その男——明智十兵衛光秀はそういった。  ……意外な相手というのさえ当たらない。  明智光秀は寄子百人をあずかっているだけの、とるにたらない軽輩の身である。小少将はこの男が鉄砲の名手であることだけは記憶しているが、その名が光秀だということさえ憶えていなかった。  ——どうしてこのようなところにこんな男がいるのか?  一瞬、そう理性がよみがえったが、そんな疑問もすぐに忘れてしまった。  光秀が近づいてくるにつれ、体の奥のほうでドロドロと淫蕩に溶けくずれるものを感じている。甘く、切ない思いが胸のなかにこみあげてきて、それを自分でもどうにも押さえきれなくなっていた。  体のなかに満ちてくる欲望に、股間が熱くうるおって、乳首が痛いほどこわばってくるのを感じた。  それは十五歳の少女がこれまで体験したことのない官能の渇きだった。  小少将はあえいでいる。唇を半びらきにしてかすかに舌をのぞかせ、ハア、ハア、と肩で息をしているのだ。  ——男に抱かれたい。それもいますぐに抱かれたい……  そんな狂おしい思いが体のなかに吹きあれている。  どうして自分がこんなふうになってしまったのか、小少将にそれが分かるはずはなく、いまやそれを怪しむだけの理性も残されていなかった。 「小少将さまがなにを望んでいらっしゃるのか、この光秀めにはそれが手に取るように分かりまする……小少将さま、稚児《わこ》さまをお生みなされませ。そして、その稚児さまを朝倉家のお世継ぎにお育てなされませ——」  光秀がそう囁きかけるようにいった。  それは悪魔の囁き、十五歳の少女の胸に毒をそそぎこむ囁きだった。  が、小少将はそのことばをろくに聞いてはいなかった。ただ抱かれたい、男に抱かれたい、という激しい思いにつきあげられ、そのほかのことはどうでもよくなっていた。 「抱いてくりゃれ、抱いて——」  小少将は呻くようにそういった。  みずから着物の裾をひらき、なかば倒れこむようにして、光秀の体に自分の手足をからませていった……    2  ここでもやはりうぐいすの鳴く声が聞こえている。  一乗谷の東側、足羽川にそって北走する山並のなかにある一乗城山……  眼下に足羽の庄一帯をひかえ、遠く福井平野を一望し、紺碧の日本海に通じている。  ここは飯田仁右衛門の山城である。  尾根をめざす曲がりくねった山道を登っていくと、まずは武士の詰め所である小城、大手門を経て、頂上の本丸に到達する。  土塁がめぐらされ、随所に櫓《やぐら》が設けられ、堀切が点々と切られている。城というより、むしろ砦の印象が強いかもしれない。  前面に三峰《みつみね》城、槙山《まきやま》城、成願寺《じようがんじ》城の出城を持ち、背後には搦手《からめて》の城として小宇坂城を擁している。飯田仁右衛門がこの山城にあるかぎり、いかなる外敵も絶対に朝倉領に侵入することはできない、一乗谷の人々はそう信じこんでいる。  その山城のなか、武者溜まりの広場の背後に、雑木林がひろがっている。  春、——木々の緑が萌えたつなかに、アセビの木が激しくあわだつように白い花を咲かせていた。ほんのりと甘いにおいがたちこめている。  泉から湧き出る水が、樹々のあいだを縫って、きよらかな音をたてていた。  その林のなかに疾風《はやて》がいる。  が、疾風には春の美しさを愛《め》でている余裕はないようだった。  ——閻魔冥官《えんまめいかん》。  いまの疾風は寝ても覚めてもあの男のことが忘れられずにいる。刀も抜かずに、やすやすと自分を追いつめた冥官のことを考えると、屈辱感に頭のなかがカッと熱くなるのをおぼえる。  人は疾風のことを女剣士と呼び、彼女自身も自分の刀術に絶対の自信を持っていた。深甚流をきわめ、まずたいていの相手なら難なく倒すことができる、そう思いこんでいたのだ。  ——おまえは自分が女であることを忘れるがよい。この戦国の世に女であることがなんの得があろうか。おまえは男でもなく、女でもない。おまえはおまえ自身、この世にただひとり、一乗谷の疾風なのだ。それをいつも胆に銘じておくことだ……  父親の仁右衛門におりあるごとにそう教えこまれている。  疾風もまた自分は刀術にすぐれ、よしんば戦国の世にひとりで放り出されるようなことがあっても、立派に生きていくことができる、そう自信を持っていた。  慢心、というべきか、その自信をいともたやすく打ちくずされた。閻魔冥官と戦って、自分の刀術がいかにたわいもないものであったか、それを手痛く思い知らされたような気がする。  疾風の刀術は、冥官の新当流・一の太刀にまったく手も足も出なかったのである。  ——今度、あの男と戦うときには、今度こそは……  疾風はそう思いつめている。  そのためにいまも林のなかでただひとり剣をふるっているのだ。  飛びすさり、踏みこんで、ときには上段から剣をふりおろし、あるいは地を擦《す》るようにして、剣尖を送り、一時も休むことなく、めまぐるしく動きまわっている。  迅速な動き、精妙きわまりない太刀さばきだった。  疾風はもう半刻(一時間)あまりもそうして剣をふるいつづけている。  ひたいには玉のように汗が噴き出し、その息も荒くなっていた。  だが……  鍛練を重ねればかさねるほど、疾風の胸のなかで、閻魔冥官の存在がしだいに大きく膨らんでくるようであった。  怪鳥のように踏みこんでくる冥官の異様な姿を、どうしても胸から拭い去ることができず、ついにはそれに屈してしまいそうになる。しょせん自分は閻魔冥官に勝てるはずがない、そうした無力感に押しひしがれてしまいそうになるのだ。  そうして剣をふるいながら、いつしか疾風は自分がいま冥官と戦っているような錯覚にとらわれていた。  ——飯田仁右衛門の娘が女だてらに深甚流の兵法をまなんで、まだ若年ながら、その刀術、達人の域に達している、といううわさを聞いたことがある。はは、そのうわさ、いささか大げさであったようだな……  冥官のあざけるような声が頭のなかで聞こえている。  ——おのれ。  その嘲笑の声に向かって、疾風は剣をふりおろすのだが、そのたびごとに冥官はついと遠ざかり、ついに剣尖がその体に達することはない。突いても、薙《な》いでも、冥官はたくみに身をかわし、疾風はただひたすら幻像を追って、むなしく剣をふるいつづけるばかりだった。  笑い声が聞こえてきた。聞こえてきたような気がした。  その笑い声が現実のものか、それとも幻聴にすぎぬのか、いまの疾風にはそれさえさだかではなく、 「うぬ!」  頭上に剣をふりかざすと、その笑い声に向かって、ほとんど反射的に踏みこんでいった。  が、——思いがけなく、人間ではないものを斬った感触があり、ザアッ、という葉擦れの音とともに、頭のうえに木の枝が落ちかかってきたのだ。  疾風はとっさに飛びすさり、自分が斬り落とした木の枝の下敷きになる醜態からだけはかろうじてまぬがれた。  飛びすさりはしたものの、そのままそこに呆然と立ちすくんでしまう。  疾風は唇を噛みしめている。羞恥《しゆうち》で自分の顔が赤らんでいくのを感じていた。  閻魔冥官の幻像に平常心をうしない、ついには木の枝を人間と見あやまるほど、われをうしなってしまった。兵法者ともいえない無様さだった。  今度は幻聴ではなく、たしかに現実のものにちがいない笑い声が聞こえてきた。 「だれだ?」  疾風はその笑い声のほうにキッと顔を向けた。  いまから考えれば、ついさっき聞こえた笑い声もたしかに現実のものだった。それを冥官の幻聴の笑い声と錯覚して斬りかかったのは、いかにも未熟だったが、その一撃を難なくかわされたとあっては、これはもう弁解の余地のない醜態というほかはない。  その醜態を見られた、という羞恥心、それに自分自身の未熟さにたいする怒りで、疾風はいまほとんど自分を見失っている。その自分への怒りを、無礼な笑い声の主への怒りにすり替えて、場合によってはそのままには捨ておかぬ、そんな猛々《たけだけ》しい気持ちになっていた。 「だれだ、出てこぬか」  もう一度そう声をかけると、ようやく笑い声がおさまり、木のかげからひとりの若者が姿を現した。  おそらくは十七、八歳か、たっつけ袴を穿いたありふれた装いだが、ただその刀が尋常のものではなかった。三尺八寸(およそ一・二メートル)あまりもあろうという、とてつもない長刀を腰に帯びているのだ。  が、一瞬、疾風がたじろいだのは、その長刀に驚いたからではない。そうではなく、その精悍《せいかん》な眼の光、それにもかかわらず少年のように初々しい頬の線、青春美としかいいようのない若者の容姿に、自分がややうろたえるのを感じたからであった。  もちろん、疾風はどんな男にもこんな感情をおぼえたことはない。これまで男などはまったく眼中になかった、そういってもよかった。  それが思いがけなく、その若者の姿に心ひかれるものをおぼえ、そして——一瞬にせよ、そんなことでうろたえた自分自身にカッと怒りをつのらせて、疾風はいっそう声を荒げた。 「おまえはだれだ? なにをそのように笑う。無礼であろう」 「いや、これはたしかに無礼、そう咎《とが》められても弁解のしようがありません」  若者はそう詫びたが、それが心底からの詫びでないことは、その顔にあいかわらず笑いを残していることからも明らかだった。 「名を聞いている。おまえはだれだ」  その小面《こづら》憎さにムッとして、疾風は高飛車な口調でそう尋ねた。 「なに、名乗るほどの者ではありません。と申しても、名乗らなければ、またご機嫌を損じそうですな。わたしは富田勢源《とだせいげん》さまにお仕えしている者で、秋月小次郎、いまだにご家中にも加えていただけぬ軽輩の身です——」  秋月小次郎……疾風はそう口のなかでその名をつぶやいた。その名の響きがいかにも快いものに感じられ、一瞬、怒りを忘れそうになるが、すぐに気持ちを引きしめて、 「なにを笑ったのだ。女のわたしが剣をふるっているのがそんなにおかしく思えたか」 「さにあらず」  小次郎は笑いを消すと、この若者には似つかわしくない真面目くさった顔になり、そう否定した。 「うら若い女性《によしよう》の身で、なかなかもって精妙な太刀さばき、正直なところ、感心させられました。なみの男では、なまじの修行をかさねたところで、到底あそこまではいきますまい」 「それではなにをあのように笑った。無礼であろう」 「いや、弱りましたな——」  小次郎は閉口したように頭を掻いて、 「じつはわたしもそのせせらぎのほとりにすわり、自分なりに兵法の工夫をしていたのですが……そんなときにあなたの姿をお見かけしたものですから、兵法の修行も様々ではあるな、となんとはなしにそのことがおかしくなりましてね。それでつい笑い声をあげてしまったのです。べつだん他意があっての笑いではない。いきなり笑い声をあげたのは、たしかに当方の非礼、そのことはお詫びしますから、まずは怒りをおさめてくださいませぬか」  ——なんという馴れなれしい口をきく男であることか……  闊達《かつたつ》といえば闊達、無礼といえばあまりに無礼、——疾風は眼のまえの若者をどう考えたらいいのか、その判断に苦しんでいる。  朝倉の家中の者ではない、というから、もしかしたら疾風のことを知らないのかもしれない。  だが……  それにしても疾風はこれまで自分に向かって、こんな口をきく男には出会ったことがない。若い男はみな疾風の刀術の冴え、それにその美貌に萎縮するか、反感を持つか、いずれにせよこんなふうに自然にふるまえる若い男はいなかったような気がする。  そのことに感心したらいいのか、それとも怒るべきであるか、疾風は自分でも自分の気持ちが分からなかった。  ただ、疾風もやはり兵法を修行する者として、その若者がせせらぎのほとりで兵法の工夫をしていた、ということには興味を引かれるのをおぼえた。  というのは、小次郎という若者は汗もかいていなければ、息をはずませてもおらず、これでどんな兵法の工夫をしていたのか、そのことが不審に思われたからであった。 「ははあ、わたしが兵法の工夫をしていた、というのを疑っておいでですな——」  疾風の訝しげな視線に気がついたのか、小次郎はそう苦笑を洩らし、 「いや、このように涼しげな顔をしていたのでは、お疑いになるのも無理はないが、なに、兵法の工夫といっても、べつだん刀をふりまわしていたわけではない。燕《つばめ》を見ていたのです」 「燕を?」  疾風は反射的にせせらぎのほうに視線を向けた。  なるほど、たしかにせせらぎには燕が舞っていて、ときおり、きらっ、きらっと白い腹を見せながら、軽やかに水面をかすめ飛んでいる。春にはめずらしくもない光景で、これがどうして兵法の工夫にむすびつくのか、疾風にはまったく見当もつかなかった。 「燕を見て、それでどう兵法の工夫をしようというのか?」  業腹《ごうはら》に思いながら、そう尋ねずにはいられなかった。 「なんとか飛んでいる燕を斬ることができぬものか。飛んでいる燕を斬ることができるほどの太刀運びの速さを会得《えとく》すれば、兵法者たる者、これにまさる刀術はないのではないか、そう考えましてね」  小次郎はこともなげにそう応じた。 「飛んでいる燕を斬る?」  疾風はあっけにとられた。  ——この者、正気か。  そう疑い、あらためて相手の顔をしげしげと眺めずにはいられなかった。  もちろん飛んでいる燕を斬ることができれば、これは抜群の刀術というべきだが、兵法者といえども生身の人間であり、そんなことが可能だとは思えなかった。それも小太刀か中太刀であればまだしも、若者が腰に帯びているような長刀を用いたのでは、とうてい無理というものだった。 「そんな雲をつかむようなことを考えながら、わたしは燕を見ている。そのすぐかたわらでは、あなたのようなうら若い女性《によしよう》がしきりに剣をふりまわしている。いや、これはいっそ男と女とが入れ換わったほうがいいのではないか、そう思うと、なにやらおかしくなりましてね。それでつい無礼をかえりみず、笑い声をあげてしまったのです——」  屈託のない声でそういうと、小次郎はまたはずんだような笑い声をあげた。    3  いつもの疾風《はやて》ではなかった。  冥官に手もなく打ち負かされた屈辱感、それにその若者にわれ知れず、心ひかれるものをおぼえた動揺、そうしたことがないまぜになって、いつになく疾風を情緒不安定にしていた。  このころ、娘は十二歳になればもう子供とはいえない。十三歳になれば、立派に成人した女性とみなされ、その歳《とし》で人妻になった女は、大人のあかしとして眉毛を落とし、歯を黒く染めた。  もちろん疾風には成人した女になりたい、などという思いはなく、また父親の仁右衛門もそうした世間の通弊《つうへい》とは関係なしに、娘を育ててきている。  一般にこの時代の女は、白粉《おしろい》を塗りかさねるような厚化粧をするのがつねだが、疾風が素肌をさらしているのは、ふつうの女にはなりたくない、という意思表示のつもりであった。  が、そうであっても、やはり疾風もこの時代の人間であることから逃れられるわけがなく、ときには自分の十二歳というとしを意識せざるを得ない。  疾風が小次郎という若者に好意をいだいたとしても、この時代、なんの不思議もなかったのである。  だが……  疾風は自分が小次郎に好意を持ったことを受け入れたくはなかった。男に愛情を持つのは、つね日頃から軽蔑している、たんなる女になり下がることのように思われ、そんなことを認めるわけにはいかなかった。  要するに、少女期の混乱した思いにとらわれたわけだが、疾風の場合、それをとりあえず解決する手段はひとつしか考えつかなかった。  疾風はこのときまだ刀を抜き身のまま下げていて、そのことがなおさら事態を紛糾させることになった。 「男と女と入れ換わったほうがいいとはよくも申した。わたしを女と見てあなどるつもりか——」  自分でも自分の混乱した気持ちをあつかいかねて、疾風はそう叫んでいる。 「おまえがほんとうに燕を斬れるほどのうでを持っているかどうか、このわたしと仕合ってみよ!」  いくらなんでもこれは道理があわぬ、われながらそう思わないでもなかったが、このときにはもう疾風は自分の気持ちを押さえかねている。  疾風にも自分の微妙な心理のあやはよく理解できないでいる。まさかその若者に好意を持ったために、自分がこうまで猛《たけ》っているのだ、とは彼女自身にも分かるはずのないことだった。  ましてや小次郎には、どうして疾風がいきなり試合をいどんできたのか、まったく理解の外だったにちがいない。  一瞬、小次郎はあっけにとられたような表情で立ちすくんだが、疾風が剣をかまえ、突進してくるのを見て、ようやく事態を把握したようだった。  すかさず、地面に落ちている木の枝を拾いあげると、 「迷惑!」  そう叫んで、飛びすさった。  たしかに迷惑といえば、これ以上の迷惑もなかったろう。小次郎としてはたんに雑談をかわしていたつもりにちがいなく、疾風と試合をしなければならない理由はなにもなかったはずである。  が、疾風のほうは小次郎が折れ枝を拾ったことに、まだ自分をあなどるつもりか、となおさら怒りをつのらせている。  もともと思春期の娘の微妙な心理にかりたてられた行為で、疾風自身にも自分がどうしてそんなに怒っているのか、さだかには分かっていないのだ。どんな些細なことでも、とりあえず自分の行為を正当化するものであれば、それで怒るのには十分だった。  もちろん疾風には本気で小次郎を傷つけるつもりなどなかった。とりあえず自分の実力を認めさせれば、それでよく、小次郎を林の奥に追いつめるぐらいの気持ちでいた。  だが……  自然体のままで、そんなに足の運びが速いようにも見えないのに、どうしても小次郎に追いつくことができないのだ。  これまで疾風は試合でいろんな人間と立ち合ったことがあるが、こんなとらえどころのない相手は初めてだった。  追えば、ふわふわと飛びすさる。回りこもうとすれば、かわされる。油断させようと身を引けば、これはどういうつもりなのか、のんきな顔をして、ノコノコと自分のほうから足を踏み出してくる。 「迷惑! 迷惑!」  小次郎はそう叫んでいるが、案外、この試合を楽しんでいるのかもしれない。事実、なにも知らない人間が、この情景を見れば、若いふたりが追っかけっこを楽しんでいる、そう思い込んだにちがいない。 「おのれ、人を馬鹿にして——」  疾風は怒り心頭に発し、刀を上段にかまえると、高々と跳躍した。  そんなつもりはなかったのだが、つい手加減するのをおこたった。自分でもハッと息を呑むほど、それは凄まじい剣風をはらんだ一撃で、しまった! 疾風は胸のなかでそう悲痛な声を発している。  が、そのときにはすばやく小次郎は飛びのいていた。疾風の剣は枝を斬り落としただけで、一瞬、血がしぶいた、そう錯覚したのは、たんに四方に飛び散った木の葉にすぎなかった。  ——ああ、よかった。  疾風はホッと息を吐き、全身が地に沈んでいくような安堵感にみまわれた。  そのくせ、小次郎が片手だけで木の枝を突き出し、何事もなかったような顔をして、その場に立っているのを見ると、また新たな怒りがむらむらと湧きおこってくるのだから、疾風は自分でも自分をどうしていいのか分からなかった。 「もうおよしなさい——」  小次郎はそういった。語調も口調も一変して、静かなものになっている。 「おれはこんなことで怪我をするわけにはいかぬのだ。あなたがこんな馬鹿な遊びをつづけるつもりなら、不本意ながら、おれも手むかわなければならぬ」 「…………」  もちろん疾風も小次郎と本気で試合をしたいわけではなかった。  これまで小次郎を追いまわしたのは、なにか拗《す》ねるような、じゃれているような、自分でも説明のつかない甘酸っぱい気持ちからだった。これがほかの娘なら、もっと自分の気持ちに忠実になれたろうが、疾風は剣をふるうことでしか、自分の気持ちを表現できない娘だった。  疾風は剣を引きたかったが、そんなことをすれば、自分の気持ちを見透かされるような気がして、どうしても素直になれなかった。 「望むところだ。おまえも剣を抜け。逃げてばかりいないで尋常に勝負しろ」  疾風はそう叫んだが、そのときにはほとんど泣き出したいような気持ちだった。  小次郎が木の枝を投げ捨て、腰の刀に手をやった。  ——林のなかで、あんな長刀をつかったりしたら、木の枝がじゃまになって、思うように動けないのじゃないかしら?  ふとそう小次郎のことを案じる気持ちになったのだから、疾風の心理はまったく矛盾している、としかいいようがない。  小次郎がスラリと剣を抜いて、一歩、まえに踏み出したとき、—— 「疾風、なにをしているのだ」  ふいにそう鋭い声があびせかけられた。 「城内で馬鹿な真似はよさぬか」  飯田仁右衛門だった。  いつからそこにいるのか、仁右衛門が雑木林のなかに立っていた。いつもは疾風に優しい仁右衛門が、いまは厳しい顔をして、疾風を睨みつけている。  仁右衛門の後ろには、これは疾風も顔だけは知っている富田勢源《とだせいげん》が立っている。 「小次郎、そのお方は飯田さまのご息女であらせられるぞ。無礼があっては、とりかえしのつかぬことになろう」  と、これは富田勢源だ。 「飯田さまのご息女……」  小次郎は剣を引いて、呆然とそう口のなかでつぶやいた。やはり疾風のことを知らなかったようである。 「疾風、じゃじゃ馬もたいがいにせぬか。刀術を修行せよ、とはいったが、むやみに剣をふりまわせ、と申しつけた憶えはない」  父親にそう叱声をあびせられ、にわかに疾風は体のなかに恥ずかしさがこみあげてくるのを感じた。  身のやり場もない恥ずかしさ、——顔に血がさして、熱く火照《ほて》るかのようだ。しかし、そこには小次郎とやりあわずに済んだ、というホッと安堵する気持ちもあった。  疾風は剣をおさめ、父親たちに一礼すると、そのままパッと身をひるがえし、雑木林のなかに逃げ込んでいった。  背後でだれかの呼ぶ声が聞こえたようだが、それがだれだか確かめるゆとりさえなかった。    4 「若い者のすることだ。なにも咎めだてするまでもあるまいよ——」 「いや、それにしても疾風《はやて》さまに刃を向けるなど粗忽《そこつ》にもほどがあります。この秋月小次郎、わが弟子ながら、なにをしでかすか分からぬやつ、今度のことはきつく叱ってやらねばなりますまい」  師匠の見えない眼で睨みつけられ、小次郎は身をすくめて、うなだれた。  仁右衛門、勢源のふたりは、いま山の頂きに向かう道をゆっくりと登っている。  そのあとからは小次郎が悄然としてついてきている。  本丸に向かう山道、一乗山はそれほど高い山ではないが、天然の地形を利用して、この山城は意外なほど懐が深い。  曲がりくねった山道をのぼっていくと、右に左に堀切や、武士の詰め所が見える。道を登りつめると大手門、そこは平坦地になっていて、その奥には不動清水があり、一段と高くなったところが本丸であった。  本丸に近づくにつれ、すれちがう者、あとから来て追いこす者の数が増え、だれもが仁右衛門に丁寧な辞儀をする。仁右衛門はそうした者にいちいち挨拶を返し、悠然と山道に足を運んでいる。  仁右衛門にはいかにも大臣《おとな》の風格があり、その姿を見るかぎり、だれもかれもが深刻な悩みを持っているなどとは考えないにちがいない。  だが…… 「鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》さまのことを聞いたか。なんでも領民たちが苛烈な年貢にあえいで、難儀をしているということだが」  そう勢源に話しかけた仁右衛門の表情はいかにも憂鬱げであった。 「はい、百姓たちは困窮し、一村逃散も辞さない覚悟だと、そう聞きおよびました」 「馬鹿な話だ。こんなときに領民の信をうしなって、どうしようというのだ。ますます他国につけいられるばかりではないか」 「鞍谷刑部さまはたんに操られているだけではないか、それがしにはそう思えてなりませぬ。なにやら鞍谷刑部さまの背後には傀儡《くぐつ》師が隠れていそうな案配で——」 「明智光秀か」 「はい、まず間違いなく……飯田さまを狙った刺客たちも、おそらくは明智光秀の手の者でありましょう」 「うむ」  仁右衛門は顔をしかめ、 「あの男、いったい何をたくらんでいるのか、いずれにせよお家に仇《あだ》をなす者であることには相違ない。このままには捨ておけぬが、鞍谷刑部さまが後ろ盾になっているとあっては、うかつには手が出せぬ」 「もしかして織田か、武田の放った諜者ではありますまいか」 「いや、そうではあるまい。それにしては、あの者、あまりにやることの真意がつかみがたい」 「御門《みかど》十兵衛光秀、いまから思えば、以前にご領内に現れたときに、成敗しておくべきでしたな。あのときみすみす逃してしまったのが、いまとなっては悔やまれてなりませぬ」 「あのあと、光秀が美濃の明智光安に仕えたことに間違いはあるまいな」 「はい、いま草の者を放ち、明智光秀の素性を調べさせてはいますが、なにぶん得体の知れない男、草の者たちも難儀いたしておるようでございます」 「あの男、自分は明智光安の甥だったと吹聴しているようではないか。いつのまにか御門の姓を明智に変え、じつに抜目のない男ではあるな」  仁右衛門は苦々しげにそう笑った。  御門十兵衛光秀は一乗谷を去ったあと、美濃の明智光安に仕えたという。  明智光安は美濃の斎藤道三に臣従していた武将であるが、道三が長男の斎藤義竜に滅ぼされたおり、明智城を焼かれ、やはり滅んでいる。これがいまから十年まえ、弘治二年(一五五六)のことで、光秀は明智城から落ちのびて、その後、諸国を流浪していたということになっている。 「勢源——」 「は」 「わしには明智光秀の背後にもうひとり傀儡師がいるような、なにやらそんな気がしてならぬのだ」 「是界、でございますな」  勢源の声が深沈とした響きを帯びた。勢源が盲目になったのも、もとはといえばその是界のためであり、さすがの勢源もその名前には平静ではいられないようだ。 「うむ、わしはその是界なる老人に会ったことはないが、あの宋滴老があれほど恐れ、おぬしほどの者の眼をつぶした化物。その化物が、この朝倉家にたたってみせる、と豪語したからには、よほど当方も覚悟してかからねばなるまいよ」 「はい——」  勢源はうなずき、なにかいいかけたが、ふとその顔を虚空に向けた。  どこからか鷽《うそ》の声が聞こえてくる。しばらく、その声に聞き入っているようだったが、 「小次郎」  そう弟子の名を呼んだ。 「燕に執心するのもよいが、たまには鷽を追ってみるのも悪くあるまい」 「は?」  小次郎は怪訝そうな表情になり、自分も鷽の声に耳をかたむけたが、すぐにその顔に薄く血の色がさした。 「心得ましてございます」  そう答えると、小次郎はそのまま山道を走りはじめた。  第五章 鷽女《うそめ》    1  一乗城山……  その山城の本丸千畳敷からやや下ったところに不動清水と呼ばれる湧《わ》き水がある。  現代でもこの不動清水はまだ残っているが、その水の量は微々たるものである。  が、戦国のこのころには湧き水の量もかなり多かったし、その水が山肌を伝い、林を縫って、ちょっとしたせせらぎのようになっていた。  鷽《うそ》の声はそのせせらぎの辺りから聞こえてくるようだ。  その鷽の鳴き声を追って、小次郎はせせらぎのほとりを走っている。  ——燕《つばめ》に執心するのもよいが、たまには鷽を追ってみるのも悪くあるまい。  師匠の富田勢源《とだせいげん》はそう言ったが、もちろんこれは謎をかけたのにちがいない。  なみの人間には分かるまいが、兵法の修行を積んだほどの者であれば、それが本当に鷽の鳴き声であるかどうか、その判断がつかないはずがない。  巧みに鷽の鳴き声に似せてあるが、それはたしかに人間の声だった。戦場などで物見の者などが合図に梟《ふくろう》の鳴き真似をする、とは聞いたことがあるが、鷽の鳴き声を真似るのはめずらしい。  だれかが何のために鳴いているのか、勢源はそれを小次郎に確かめさせようとしたのである。  ——おれは未熟だ。  小次郎は自分のことをそう恥じている。  おなじように鷽の声を聞いていながら、師の富田勢源に指摘されるまで、それが人間の声であることに気がつきもしなかった。  勢源は盲目であるだけに、ことさら聴覚に敏感なのかもしれないが、まだ若い小次郎はそんなことで自分のうかつさを許す気にはなれない。鷽の声をなんとなく聞き流していた自分の未熟さが恥ずかしくてならない。  その恥の感覚が、  ——だれが鳴いているのか、それを確かめずにおくものか。  なおさら、そう小次郎を奮いたたせているのだ。  しかし……  まさか、そこに女の姿を見ることになろうとは、小次郎も考えてもいなかった。  歩き巫女《みこ》か、あるいは旅の遊女《うかれめ》、——いずれにせよ、まだ若い女のようだった。  裾を濡らし、せせらぎのほとりに、ただひとり、うずくまっていた。深い市女笠《いちめがさ》に、虫垂れで顔を隠し、指さきだけを出した手甲のようなものを手に填《は》めている。  女は小次郎が来たのには眼もくれようとしない。子供が遊んででもいるように、ただ無心に細い腕を伸ばし、せせらぎの水を掻きまわしている。  小次郎は辺りを見まわしたが、山肌を覆う林には、春の陽光がほのかに射しているだけで、ほかに人の姿はなかった。  その女以外に鷽の鳴き声を真似ていた人間はいそうになかった。  小次郎は勢いこんで駆けてきた自分を苦々しく思っている。たかが女ひとりに、自分の意気込みはいささか大仰にすぎたようだ。 「女——」  小次郎はそう声をかけた。 「鷽の鳴き声を真似るのがたいそう上手ではないか」 「…………」  女は顔をあげた。  が、なにも言おうとはせず、ただまじまじと小次郎を見つめている。  市女笠と虫垂れに顔を隠され、その容貌ははっきりとは分からなかったが、それにも関わらず、きわだった美貌であることを感じさせた。その視線がなみの女のようではなく、眼光に力がみなぎっていて、人を射ぬくように鋭かった。 「いや、たいしたものだ。おれはまったく感服させられた」 「それをおっしゃりたいために、そのように息せききって、わざわざ駆けていらしたのですか?」  女がそう答えた。低い、からみつくような感じの声で、かすかに笑いを含んでいた。 「そのようにお誉めいただくのでしたら、いっそお鳥目《ちようもく》などいただきましょうか」 「あいにく、おれには持ちあわせがない。情けない話だが、銭というものにはまったく縁のない男なのだ」 「ほほ、それではせいぜいお誉めくださいませ。わたしも鳴き声をあげるのに励みになるというものでございます」 「聞きたいことがある」 「はい、なんなりと」 「だれのために鳴いている?」 「…………」 「いや、何のために鳴いているのだ? さきほどから我らのあとを追い、しきりに鳴いていたようだが、あれはだれかに合図するためのものであったのか」 「あまりにあなた様がりりしい殿御であらせられて——」  女はかすかに笑ったようだ。 「それでついわれを忘れて鳴きつづけてしまいました。思えば、わが身のはしたなさが恥ずかしゅうございます」 「————」  小次郎は顔に血がのぼるのを感じた。  あきらかにその女は小次郎のことをからかっている。小次郎を若年と見てあなどっているのか、そうでなければ自分の美貌をもってすれば、男など難なくあしらえると自惚《うぬぼ》れているのかもしれない。 「言わぬか、女。おまえは何者だ——」  小次郎の口調は一変して険しいものになった。相手が女だからといってもう容赦はできない、そんな昂《たかぶ》った気持ちになっている。 「だれに頼まれて、われらのことを探りにきたのだ? 素直に申せばよし、そうでなければ、しかるべき場できびしく詮議《せんぎ》することになるが、それでもいいのか」 「詮議、年端《としは》もいかぬあなた様がわたしのことを詮議なさる? それは頼もしいことでござりまするなあ。はて、どのように詮議なされることか、ぜひともそれをこの眼で見てみたいものじゃ」  女は虫垂れをあげると、その白い喉をのけぞらせるようにして、澄んだ笑い声をあげた。  女は小次郎が予想していたよりもはるかに美しかった。いや、異様に美しいというべきかもしれない。ややおとがいの尖った顔に、切れ長の眼が涼しく張っていて、ネコを思わせる顔だちをしている。 「年端もいかぬだと。このおれが年端もいかぬだと——」  聞き捨てならない言葉だった。女の、しかも自分とさして歳が離れていそうにない相手からそんなことを言われ、小次郎の自尊心はいたく傷つけられた。 「どのように詮議するか、それを見たいと言ったな。望みをかなえてやろう。おれと一緒に来るのだ」  小次郎が足を踏み出すと、女はスッと遠ざかり、そのまませせらぎのなかに後ずさりに足を踏み込んでいった。 「一緒に来て欲しくば、わたしを捕らえればよかろう。そうしてこそ、おまえも立派な男というものではあるまいか」  いまにも笑いだしかねない、からかうような口調だった。その口調がなおさら小次郎の怒りに火をつけた。 「分かった。ならば力ずくで引ったてるまでのことだ——」  小次郎は女を追って、ザブザブと水のなかに踏み込んでいった。  ピーッ!  鷽の鳴き声が聞こえてきた。それも思いがけなく背後から、だ。小次郎が驚いてふりかえると、今度はその鳴き声がすばやく右手に移動する。そちらのほうに慌てて視線を走らせると、もうそのときには鳴き声はべつの方向に移ってしまっている。  ピーッ ピーッ ピーッ。  右に、左に、鷽の姿はどこにも見えないのに、ただその声だけがめまぐるしく移動をくりかえし、小次郎を惑わせている。  ——しまった、これは幻術《めくらまし》だ。  そう気がついたときにはすでに、小次郎はいつもの平常心を失ってしまっている。もうなにも考えられない。ただ豪雨のようになだれ落ちてくる鷽の鳴き声に翻弄《ほんろう》されるままになっている。  鷽の鳴く声に混じって、女の笑う声が聞こえてきたような気がした。小次郎の醜態をあざ笑う声だった。 「うぬ!」  小次郎が五感に頼りつづけていれば、鷽の鳴き声に翻弄されるままになり、ついにはその場に昏倒したにちがいない。  が、女の笑い声に勃然と怒りを誘われ、感覚ではなく、なかば剣士の本能のようなものに導かれて、小次郎はほとんど自分でも気がつかないうちに剣を鞘走《さやばし》らせている。 「あっ」  鷽の鳴き声が一瞬のうちにかき消えて、それと入れ替わりのように女の驚く声が聞こえてきた。  小次郎が抜き撃ちに放った剣は、女の市女笠を下から上に斬り裂いている。もちろん虫垂れも斬り裂いて、女の顔がはじめて陽の光にあらわになった。  さすがに青ざめた顔になっている。 「おもしろい術を使う。だが、そのような子供だましの術、しょせんわが富田流には通用せぬものと思え」  小次郎は女に剣を突きつけ、怒りを抑えた低い声でそういった。    2  が……  女のつづく行為は小次郎の意表をつくものだった。  やにわに女はその場にひざまずくと、手で水をすくい、それを口に含んだのだ。  ——なにをするつもりなのか。  いつもはものに動じることのないこの不敵な若者の胸をそう動揺の念がよぎった。しょせん富田流には通用せぬ、そう豪語はしたものの、その女の幻術の業が並なみならぬものであることは骨身に染みて思い知らされている。  小次郎はすばやく剣を引くと、女に飛びかかり、その体を捕らえようとした。  が、そのときには女の口から水が霧のように吹き出していた。  あとから考えれば、そのまま怯《ひる》まずに、女を取りおさえるべきだったのだ。なまじ抜群の反射神経を持っていたために、水を避けてしまい、とっさの判断を誤らせることになった。  女が口に含んだだけの水である。たかの知れた量であるはずなのに、それはきらきらとまばゆいしぶきとなって散り、それが一変すると、霧のような濁色に染まった。  霧のように、——いや、それはまさしく霧そのものとなって、女の体を包みこんで、小次郎の視界をさえぎった。 「幻術など通用せぬといったはずだ。悪あがきはよさぬか!」  小次郎はそう叫んだが、これはかれには似合わぬ、虚勢というべきだった。  通用せぬかしないか、じつのところ小次郎はおのれの刀術にそれほど自信は持っていなかった。  霧のなかにふわりと浮かびあがるものがあった。一つ、二つ、それがしだいに数を増していき、シャボン玉のように、小次郎のほうにゆらゆらと漂ってきた。  女が宙に吹いた水が霧となり、次にはそれが凝集して、なにか透明な玉のようなものを形づくっているのだ。  いまの小次郎にはもうそれを奇怪と感じるだけの気持ちのゆとりがなかった。それが何であるか、自分の身になにが起ころうとしているのか、それを判断できるだけの知識もあるはずがない。  その眼をただカッと見ひらいて、霧のなかに浮かんだ透明な玉が、ふわふわと自分に近づいてくるのを凝視しているだけだ。  脳髄が痺《しび》れたようになり、とっさにはどうしていいのか、それを考えるだけの力が湧いてこなかった。  完全な真球ではなく、やや楕円形の卵に似た形をしている。その透明な膜がわずかに震えていたが、それも風に吹かれているからではなく、そのもの自体がブルブルと蠕動《ぜんどう》しているようだった。  その透明な膜ごしになにか細長い虫のようなものがうごめいているのが見えた。いや、虫ではなかった。それが虫などではありえないことを、小次郎はなかば本能的に知っていたようだ。  それが何であるのか判断できぬまま、そのくせ妙に魅せられるものを感じて、小次郎はそれから眼を離せずにいた。  小次郎の眼にはもう陽の光も、せせらぎの風景も見えていなかった。ただ霧そのものがボウと赤みを帯びて、それがしだいに濃さを増していくのが映っているだけだ。  赤い色、——それはまぎれもなく血の色だった。どろりと溜まった血のなかに、それらの透明な球体は浮かんでいて、視線を凝らせば、その膜から無数の繊毛が伸びているのが分かる。  もし小次郎に現代の人体生理学の知識があれば、それが胎盤だということに気がついたにちがいない。  透明な球体、それは栄養膜に包まれて子宮の壁に潜り込んでいる着床卵であり、つまりは胚そのものであった。  もちろん、そのなかに浮かんでいるのは虫ではなく、胎児だ。胎児の皮膚は翻転し、体全体を覆って、そのなかに羊水を満たしている。胎児は羊水のなかに浮かんでいて、かつ胎児のなかに羊水があるのだ。  胎児においては尿膜の血管が臍《へそ》の緒を通って胎盤に到達し、その血溜まりを介して、母胎の血流と交わっている。  幻術《めくらまし》、しかしそれは何と魅惑的な幻術であったことか。赤い血の霧のなかに漂っている着床卵、そして胎盤を介して、そのなかに浮かんでいる胎児。——いま小次郎はまざまざと母胎のなかにある胎児の姿を見て、それのみばかりかドッ、ドッと脈打つ母親の鼓動の音さえたしかに聞いていた。  この時代の小次郎にいま自分が見ているのが胚のなかの胎児だという正確な知識があるはずがない。が、知識はなくても、本能のより深いところで、それが生まれる以前の人間の姿だということをはっきりと理解していたようだ。  満々と羊水をたたえた子宮のなかに、なんの憂いもなしに、浮かんでいる胎児。そして優しく、力強くリズムを刻んでいる母親の鼓動音……それは麻薬的な眩惑《げんわく》をいざない、小次郎のなかから急速に意志の力を奪っていった。  だれの心のなかにも母胎回帰願望がある。あの至福の時間、生まれる以前の永遠の安らぎのなかに戻りたい、という根強い願望がある。  その思いが、胎児を目《ま》のあたりにし、母親の鼓動音を聞いて、にわかに小次郎のなかに噴きあがってきたようだった。  それはどんなに勇敢な男であっても、いや、おそらくは勇者であればこそ、心の奥底に抱いている郷愁の念、切なく、抵抗しがたい願望の思いだったにちがいない。  ——おれはもう一度あそこに帰りたい。  いま小次郎はもうそのこと以外になにも考えられなくなっている。自分が幻術に惑わされているのだ、という意識さえすでに失われていた。  羊水のなかの胎児が羨ましくてならず、自分もまたそうして身体を縮め、ただひたすら永遠の至福の時間を貪《むさぼ》りつづけたい、そうした餓えたような思いにとらわれている。  眠たくなってきた。抵抗しがたく、じつに執拗な眠気だった。  それはとろとろと心身を溶かし、小次郎は自分でもそうとは意識せずに、せせらぎのなかに膝を落とし、だらしなく何度もなま欠伸《あくび》を洩らしている。  もしそのまま眠ってしまえば、小次郎がふたたび目覚めることができたかどうか疑わしい。いまの小次郎はほとんど胎児そのものになりきっていて、精神力は減衰し、自我は消え失せて、ただ母胎の涅槃《ねはん》境のなかに退行していくばかりだった。  いまにもその手から剣が離れようとしているが、小次郎はそのことに気がついてさえいなかった。  が…… 「可愛や、男よ、いま一度女の胎《はら》のなかに戻るがよい。この世のことはすべて幻、現世の憂いを忘れて、いつまでも女の胎のなかで夢をつむぐがよかろう」  そのとき赤い血のまどろんでいるような霧のなかに、そう女の勝ち誇った笑い声が聞こえてきたのだ。  ——おのれ!  それが小次郎のなかに燠火《おきび》のようにわずかに消え残っていた闘争心をかきたてたようだった。  小次郎は自分で自分がなにをしたのか気がついていなかった。激しい気合が喉をつんざいたが、それすらほとんど意識していない。  まったく無意識の動き、体だけが自然に動いた反射的な動きだった。わずかに残っていた気力を爆発させるようにして、刀を上段にかまえると、水を蹴っていた。 「あっ」  女の驚きの声が聞こえてきて、その心気の乱れにかきたてられるようにして、赤い血の霧に小波《さざなみ》のようなふるえが走った。  その瞬間——  それまでただ霧のなかに浮かんでいるだけだった透明な球体が、あるいは斜めに走り、あるいは正面に飛んで、凄まじい勢いで小次郎の体に迫ってきた。  透明な球体に触れるのには生理的な嫌悪感をおぼえた。それに触れたとたん、自分はまたあの胎児のまどろみのなかに逆行してしまうのではないか、そんなおびえに似た気持ちがあった。  胎児を斬る! 小次郎の体はまだ宙に翔《か》けたままだった。その五体がのびやかに屈伸する。あざやかに刀尖をひるがえすと、一瞬のうちに、透明な球体をことごとく斬り、裂き、突いていた。  まだそのときには小次郎自身、それが飛んでいる燕を斬れないものか、そう思いを凝らした、その執念の成果だとは気がついていなかった。  小次郎はほとんど無心の境地にあり、ただ剣だけがみずから意志を持つものであるかのように、右に、左にめまぐるしく銀光を描いた。  そして、——幻術は破れた。  胎児の幻覚はもちろん、赤い血の翳りも消え失せ、まばゆい陽の光が視界のなかに戻ってきた。その光のなかに水しぶきを散らし、小次郎の体はせせらぎのなかに飛び込んでいる。  長かったように感じたが、実際には女が霧を噴いて、いままでわずかに数分の時間がたったにすぎないようだった。  小次郎の気力は底をついていた。すぐにも女を追撃しなければならないところだが、完全に消耗しきっていて、剣を杖にし、体を起こすのがやっとだった。 「ええい、口惜しや! おまえさえいなければ、わが幻術が破られることもなかったろうに——」  女の悲鳴のような声が聞こえてきた。  小次郎は顔をあげて、 「疾風《はやて》——」  自分もまた口のなかでそう声をあげている。  いつからそこにいるのか、せせらぎのほとりに疾風が立っていた。  疾風は小次郎と女のふたりを見つめながら、なにかとまどうような表情を浮かべて、そこに立ちすくんでいるのだ。  どうやら疾風はよく事情がつかめていないようだが、それも当然のことといわなければならない。  おそらく女の幻術は、第三者の感覚にはなにも影響を及ぼさないはずで、疾風の眼にはただ立ちつくしている女の姿と、刀を抜きはらっている小次郎の姿だけしか見えないにちがいないのだ。  ふたりの間には幻術をかけようとする者と、それに屈しまいとする者との、激しい精神力のせめぎあいがあったのだが、それは第三者にはなんの関わりもないことだった。 「おまえは男か、それとも女なのか。男であれば、わが幻術に惑わされたはずであるし、女であれば、その場に昏倒していなければならぬはずだ。おまえは男でもなければ女でもないのか!」  女は身をよじるようにして、そう罵声をあびせかけたが、これにも疾風はただキョトンとしているばかりである。自分がそこに現れたことが幻術をさまたげた、それが分かっていないために、女がなにをそんなに怒り狂っているのか、そのことも理解できずにいるのだ。  が、——さすがに女はいつまでも怒りにわれを忘れているほど愚かではなかった。  小次郎が刀を杖にして、ようやく立ちあがるのを見て、すかさず身をひるがえすと、そのまま林のなかに逃げ込んでいった。 「待て——」  小次郎は弱々しくそう声をあげたが、いまだに体力は消耗したままで、女のあとを追うのはとうていできない相談だった。  疾風の眼がなければ、そのままそこに倒れこんでしまいたいほどだった。異性のまえでぶざまな姿をさらしたくない、そうした若者らしい矜持《きようじ》の念が、かろうじていまの小次郎の体を支えているようだ。  疾風の眼を意識して、小次郎はことさら落ち着いたしぐさで、剣を鞘におさめた。せせらぎから出て、やあ、と疾風にそう挨拶をした。 「どうしたのだ——」  そんな小次郎に疾風はためらいがちにそう声をかけてきた。 「いったい、いまの女は何者なのだ?」  疾風もなにか尋常ではない雰囲気を感じているにちがいないのだが、現実にその眼でなにも見ていない以上、自分の感覚に自信が持てないでいるらしかった。 「いや、べつだんどうということもない女です。なんというか、たんなる通りすがりの女にすぎません」  小次郎としてはそんなふうに答えるしかなかった。  飯田仁右衛門と富田勢源との密談をあの女に聞かれたらしい、そんなことを疾風に打ち明けるわけにはいかなかったし、ましてや幻術《めくらまし》のことなど話そうものなら、正気を疑われるにちがいない。  が、そんな小次郎の返事をどんなふうに受け取ったのか、ふいに疾風は冷たく取り澄ました表情になると、 「そうか、通りすがりの女か。それにしてはずいぶん、熱心に、あの女のあとを追おうとしていたようではないか」  投げつけるようにそう言い、そのまま小次郎のほうをふりかえりもせずに、林のなかを立ち去っていった。  小次郎には疾風がどうして急に機嫌を損じたのか見当もつかなかった。  ただポカンとして、その場に立ちすくんでいる。  疾風を怒らせてしまったようなのが、なんとなく気にかかり、また女を取り逃がしたことをどう師匠に報告したらいいのか、そのことも憂鬱であり、小次郎はじつに情けなさそうな表情になっている。 「女は厄介だ……」  小次郎はそう口のなかでつぶやいたが、それはいろんな意味で、かれのいつわらざる実感であった。    3  その日の夕刻……  飯田仁右衛門の姿は朝倉館にある。領主の朝倉義景に会うためである。  申次《もうしつぎ》の者に案内され、廊下を渡った。  朝倉館の庭には夕日が射し、贅《ぜい》をつくしたその庭園が、炎に投じられたように赤く染めあげられていた。それが仁右衛門の眼にはこれからの領主との会談の不首尾を暗示しているように思われ、なんとなく暗い予感にみまわれた。  ——馬鹿な。  そう頭のなかでそれを打ち消したが、何度も戦場に出たことのある仁右衛門は、そうした予感がけっして馬鹿にはできないものであることを承知していた。  いつもは冷静な仁右衛門が、いまはめずらしく、沈鬱な表情になっている。  御前に出た。  これから話すことは家中のだれの耳に入っても困る。人払いを願った。 「なんの用じゃ」  小姓の者が別室に下がると、義景はすぐにそう尋ねてきた。 「鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》さまのことで申しあげたき儀がございます」 「刑部のことか……」  義景は不快げな顔になった。  内室の小宰相の局は五年まえに死んでいるが、その子の阿君《くまぎみ》が世継ぎである以上、祖父である鞍谷刑部がいまも舅《しゆうと》であることに変わりはない。  朝倉義景はけっして暗君ではない。たしかに朝倉代々の領主に比べれば、やや見劣りするかもしれないが、この戦国の世に一乗谷を立派に護《まも》りとおしているその一事をもってしても、領主としてそれなりの力量の持ち主であることがうかがわれる。  朝倉義景は絵画、能、茶の湯に秀《ひい》でた、文芸百般に通じる一流の知識人であり、武芸にかんしても小笠原の弓法をきわめている。  これほどの人物が暗君のはずはないが、一乗谷はあまりに平和がつづきすぎて、義景は戦国大名というより、もはや貴族のようになってしまっている。  大叔父であり、一手に軍事をつかさどっていた教景(宋滴《そうてき》)が生きていたころには、それでも支障はなかったが、いまの義景にはもう将兵を指揮するだけの気概が残されていない。  そうした人物にありがちなことだが、家中に争い事が起こるのを極端に嫌う。鞍谷刑部がなにかと問題の多い人物であることを知らないはずはないが、それを見てみないふりをしているのだ。 「お屋形さまには刑部さまの所領で一揆騒ぎが起きようとしているのをご存じであらせられますか」  義景の不快げな表情にはかまわず、仁右衛門は言葉をつづけた。言うべきことはすべて言わなければならない、朝倉館に来るまえにそう心に決めてきている。 「なんでも領民に法外な年貢を課し、百姓たちは困窮のあげく、一村|逃散《ちようさん》も辞さない覚悟だと、そう聞きおよびました」 「聞いている。しかし、刑部に分け与えた所領のなかでのことだ。刑部がおのれの所領でどんな治世をしようと、それを傍《はた》の者がとやかくいうのはどんなものかな」 「たとえ刑部さまの所領とはいえ、それはこの一乗谷のなかにございます。領民たちもすべて朝倉家の人間でございます。いかに刑部さまが阿君さまのおん祖父であらせられようと、その悪政を見すごしにしておいていい道理がございません。恐れながら、なにとぞお屋形さまのご裁断をもってして——」 「よさぬか」  義景はそう仁右衛門の言葉をさえぎった。 「刑部はわしの舅である。そのような話は聞きたくはない」 「…………」  義景の口調はいつになく厳しかった。仁右衛門は言葉のつぎほを失い、沈黙せざるを得なかった。 「刑部ももう歳じゃ。いましばらくの猶予を与えてやっても大事はあるまい。いずれは刑部も隠居の身になり、おとなしくなるに相違ない」  そのしばらくの猶予が恐ろしいのだ、仁右衛門はそう思ったが、それは臣下たる者が主に言うべき言葉ではなかった。  宋滴老は息を引きとる間際、仁右衛門に後事をたくしている。  義景自身はもうほとんどそれを思い出すことはないようだが、仁右衛門は義景にとっては長女である疾風の身を預かっている。いや、疾風の身ばかりではなく、くれぐれも朝倉家の行く末をお願いする、そう宋滴老から頼まれてもいた。  が、大臣《おとな》ではあっても、しょせんは仁右衛門は一臣下にすぎず、領主の義景をいさめることなどできるはずがなかった。その意味で、義景の肉親であった宋滴老とはまったく立場が異なるのである。  ——宋滴老にいましばらく生きていて欲しかった……  ないものねだりであることは承知していながらも、仁右衛門は強くそう思わずにはいられなかった。  あの剛毅な宋滴老が存命であれば、鞍谷刑部もこうまで好き勝手なふるまいはできないはずである。 「そういえば、あの十兵衛光秀がな、存外によく働く——」  仁右衛門の機嫌をとりなそうとでも考えたのか、義景は急にそう話題を変えた。 「義秋(義昭)さまがたいそう光秀のことをお気にいられたご様子で、なにかというとあの者をお召しになる。ただの鉄砲上手だけの男かと思ったが、あれはあれでなかなかに役に立つことがありそうだ。五百貫文の知行では安い買物だったかもしれぬぞ」  一乗谷には滞在すべき適当な土地がなく、足利義秋は敦賀の金ケ崎城に仮の宿を置いている。金ケ崎城は海に突き出した自然の要害で、どうやら光秀はしばしば義秋のもとに伺候《しこう》しているらしい。  ——今度はあの男、なにをたくらんでいるのか?  鞍谷刑部のことばかりか、明智光秀の身辺にも眼を配らなければならない。それを考えると、仁右衛門はますます重く気持ちが滅入ってくるのを感じるのだった。    4  同時刻……  光秀は敦賀・金ケ崎城の公方《くぼう》館からの帰途を歩んでいる。  木ノ芽峠は険しく、しかもすでに夕闇に閉ざされ、足元さえさだかではない山道だが、光秀にはいっこうにそんなことは苦にならないようである。  すでに光秀も四十にさしかかろうとしているが、意外に達者な足どりで、一乗谷に向かって、山道を進んでいる。  考えているのは、昨夜、金ケ崎館で会ったばかりの義秋のことだった。  足利義秋はいずれは将軍の位につくべき貴人である。が、それにしては人間が軽躁《けいそう》で、いささか徳というものに欠けているような気がしないでもない。  もっとも、それも無理のないことかもしれない。  もともと兄の足利義輝が三好・松永に殺されさえしなければ、奈良の僧侶として一生を終えるべき人物だったのだ。思わぬことから権勢の場に引っぱり出され、やや平常心を失うことになったのもふしぎはないかもしれなかった。  ——朝倉義景の側室、小少将とか申したかな。なかなかの美形ではないか……  光秀は義秋がそう言ったのを思い出している。  酒の席ではあったが、舌なめずりするような口調、その表情は、けっして酔ったうえでのざれ言とは思われなかった。  ——意外にあの義秋という人物にはもろいところがある。  光秀はそう考えている。  長年のあいだ、寺の僧として押しこめられていたために、いまその身を解放されて、これまで抑圧されてきた欲望を一気に満足させようとしているのかもしれない。  そうだとしたら、光秀がこれをあやつり、義秋を自分の意のままに動かすのは、さほど難しいことではなさそうだ。いや、人間の弱点につけいり、ついにはその者を自分の思うがままに動かすことこそ、光秀のもっとも得意とするところであった。  ——これは面白いことになりそうだ。  光秀が心中そうニンマリと笑いを浮かべたそのとき……  山道の闇のなかに鷽《うそ》の鳴き声が聞こえてきた。  光秀は足をとめ、しばらく暗闇に視線を凝らすようにしていたが、 「鷽女《うそめ》、そこにいるのか」  やがて、そう声をはりあげた。 「はい——」  すぐに闇のなかからそう女の声が返ってきた。  声そのものははっきりしているのに、どの方角から聞こえてくるのか、それさえ定かではないような、奇妙に漠然とした響きを帯びていた。 「どうしたのだ、鷽女? 取り決めを破りまでして、わしのまえに現れるからには、よほど火急の用向きがあるのであろうな」  光秀の声はいらだっている。  鷽女はいわば光秀の連絡係であるが、情報のやりとりはつねに第三者を介して行われる取り決めであり、よほどのことがないかぎり、このふたりはじかに会ってはならないことになっている。  その取り決めを無視されたのでは、光秀がいらだつのも当然のことだった。  が、——鷽女がじかに光秀に接触してきたのは、まさしくそのよほどのことが勃発したからであった。 「贄塔九郎《にえとうくろう》の一党が動き出した、という知らせがありました——」  鷽女の声はあいかわらずヒソとして、平板そのものの口調だったが、その底にかすかに緊張の響きが感じられるようであった。 「かれらはみな一乗谷に向かって集結しつつあるということです」  フッ、と眼を覚まし、しばらく闇のなかで天井を見つめていた。  自分はどうして目覚めたのだろう、とそのことが訝《いぶか》しかった。  十二歳の若い体は眠りが深いが、その深い眠りのなかにも、鍛練を積んだ�気�だけは目覚めているようである。部屋のなかにもうひとりだれかがいる、ふいにそのことに気がついた。 「だれだ?」  疾風《はやて》は寝具のうえに起きあがり、そう尋ねた。  部屋のなかに忍び込んでいる人間に害意はないようだ。人の気配はあっても、殺気は感じない。——疾風は自分でも呆れるぐらい冷静だった。 「さすがに飯田さまのお嬢さま。若いに似合わず、腹ができていらっしゃる。じつに頼もしいかぎりでございますな」  そう声が聞こえると、燭台にポッと火が灯《とも》された。  そこには意外な人物が坐っていた。  あの飛礫《つぶて》と名乗った坊主だ。あいかわらずボロボロの墨衣をまとって、これはどういうつもりなのか、両手で自分の眼を押さえている。  子供が隠れんぼの鬼になっているようなそのしぐさがおかしく、疾風はクスリと笑い声を洩らした。  夜中に自分の部屋に忍びこんできた非礼を咎《とが》めるつもりにはなれなかった。この飛礫という人物が自分に好意を持ってくれているのがありありと感じられ、そこで疾風も気を許しているのかもしれない。 「なにをしているのだ。どうして、こんな時刻にわたしの部屋に忍んできたのだ」  まさか夜這いに来たのではあるまいな、そう言いかけ、これはあまりにはしたない、そう思いなおして、慌ててそれを口のなかに呑み込んだ。  どうしてか、この飛礫という坊主には対峙する人間の気持ちを浮かれさせるような、そんな滑稽めいたところがある。 「いまはかれこれ丑《うし》の刻(午前二時)、このような時刻に疾風さまをお起こしするのは、いかにも気が咎めまするが、なにぶんどうしても疾風さまをご案内したい場所がございまして、非礼をかえりみず、かく参上つかまつりました」 「どうして、そのように眼を押さえているのだ?」 「これは疾風さまのおん寝姿を眼にしては、あまりにご無礼だと考えてのことでござりまする。愚僧はなにも見ておりませぬ。早う着替えてくだされませ」  疾風はフフと笑ったが、すぐにその顔を引きしめて、 「着替えるのはかまわぬが、それでわたしをどこに連れていこうというのだ?」 「すぐそこでございます。疾風さまはあの蟇目《ひきめ》なる男を憶えておいででございますか」 「…………」  憶えているどころではない。詫び事の犠牲になり、むざむざ死なせてしまった蟇目のことは、いまも疾風の心の傷になって残っている。どうしてあの男を助けることができなかったか、いまもその悔いは苦く重い。 「疾風さまはお心の優しい方じゃ。あの者を死なせてしまい、ご自分を責めておいでなのは、愚僧にはよく分かりまする。ご自分をお責めになる必要はございません。そのことを疾風さまにお教えしたい、その一念でこうして参った次第でございます」  飛礫は忍びこんだのをさもたやすいことであったかのように言うが、屋敷にはもちろん宿直《とのい》の者がいる。その眼を盗んで、こうして疾風の寝所まで入ってくるのは、並たいていの体術ではないはずである。  それを考えると、疾風はこの飛礫という人物にたいして、勃然と興味が湧いてくるのをおぼえた。 「よし、行こう」  疾風の決断は早かった。寝具から勢いよく抜け出したが、こう飛礫をからかう気持ちを押さえることはできなかった。 「まさか指のあいだから、わたしが着替えるのを盗み見るのではあるまいな」 「とんでもありません。天地神明に誓って」  飛礫はそうかぶりを振ったが、その語調は不自然に強く、もしかしたらチラリと心の隅ででもそんなことを考えていたのかもしれない。  一乗谷は寺院の多い土地である。  なかでも谷の中央部、西の山裾にはかなりの寺院が集中していて、当然のことながら、墓地もいたるところにある。  さすがに敵対している一向宗に帰依《きえ》する者こそいなかったが、朝倉氏の家臣、一族たちは臨済、浄土、天台、日蓮法華など、様々な宗派に帰依し、戦国の世に心の安らぎを得ようとしていた。  その墓地でもとりわけ荒れはてた無縁墓地、——生い茂った雑草のなかに石仏や石塔が立ちならんでいるが、ろくに手入れをする者もいないまま、そのほとんどは無残に欠けて、苔むしている。  夜空には鎌《かま》のような三日月が冴えざえとかかっていた。  その冷たい光のなかに浮かびあがる無縁墓地は、なんと物凄まじく、あまり物に動じるということのない疾風も、見ていてさすがに気持ちのいいものではなかった。 「蟇目はこの墓地に葬られているのか」 「はい、さようでございます。この愚僧めがねんごろに念仏を唱えてやりましたが、あの蟇目という男は生まれついての不信心者でございましてな。はて、どこまでその念仏が耳に届きましたことやら——」 「…………」  疾風は唇を噛みしめている。  蟇目の霊にせめて花をたむけることさえしなかった自分の冷淡さが悔やまれてならなかった。あれから数日しか過ぎていないが、そのあいだに色んなことが起こり、つい死者を弔《とむら》ってやるだけの敬虔《けいけん》な気持ちを忘れていたのだ。蟇目は生きているときに花をくれたというのに。 「蟇目はどこに葬られているのだ? せめて、その地に花なりと供えてやりたい」 「さて、どこでおざったろう? なにぶん適当に穴を掘り、転がしておいたので、愚僧もよくは憶えておらぬのですが……」  飛礫はボリボリと指で頬を掻きながら、 「なに、それもいずれすぐに分かることになるはずです」 「…………」  これがいやしくも坊主の口にすることか、疾風は呆れて飛礫の横顔を見つめた。  が、飛礫はケロリとした顔で、大烏のように墓地にうずくまっている。疾風の非難の眼にもいっこうに動じる様子がなく、それどころか大きな口を開けて、欠伸《あくび》をひとつ洩らした。 「いや、これは失礼をつかまつりました。なにぶん、このところ西に東に奔走することが多うございましてな、ろくに寝ておらんのですよ——」  なにをかいわんや、疾風は言葉を失ってしまった。どうしてこんな夜中に、このような坊主の言にしたがって、屋敷を抜け出してきたのか、そのことが馬鹿ばかしく思えてもきた。  が……  そのときになってようやく飛礫の言葉の異常さに気がついた。蟇目がどこに葬られているのか、それもいずれすぐに分かることになるはずだ——どうして、そんなことが分かることになるというのか? いや、そんなことより、飛礫は墓地にそうして坐りこみながら、いったい何を待ちかまえているというのだろう。 「飛礫、これから何が始まるというのか。おまえはなにを待っているのだ?」  異次元の風に吹かれるような、冷たいものが胸をかすめるのを感じて、そう尋ねる疾風の声はいつになく震えていた。 「いや、もう始まりました。疾風さま、ご覧くださりませ」 「————」  疾風はその眼をカッと見ひらいた。喉に冷たいものがこみあげてきて、にわかに心臓の鼓動の音が高まるのを感じた。  なんたる異妖、墓地の一角の地面がふいに音をたてて崩れはじめ、そこから一本の腕がニュッと伸びてきたのである。  その腕は月の光をつかもうとでもするように、しばらく指を伸び縮みさせていたが、やがてザアッと土砂を落としながら、そこに人影が浮かびあがってきた。 「ひ、蟇目!」  疾風は悲鳴をあげた。あまりの奇怪さに全身が金縛りにあったように動けなくなっている。  たしかに地面から上半身を覗かせているのは、死んだはずの蟇目だった。いま黄泉《よみ》からよみがえったばかりだというのに、あいかわらずニヤニヤ笑いの、およそ緊迫感に欠けた表情をしている。 「アアア、ア〜」  蟇目は両腕をあげ、伸びをすると、そう欠伸を洩らした。  第六章 直面《ひためん》・殯《もがり》・蟄虫《ちつちゆう》    1 「年寄りに夜なべは体にこたえる。夜露が骨身に染みてたまらぬわい——」  そんな声が聞こえると、石塔のかげからひとりの人影が這《は》いだしてきた。  老人である。それもおそろしく年をとり、全身の水気が抜けて、しなびてしまったような老人だ。  蓑笠に、柿色の破れ衣、上端に鹿角をとりつけた長い鹿杖を持っている。人間というより、老猿に近い容姿だが、その眼は人なつっこく、諧謔味をたたえていて、ふしぎに醜さを感じさせない。 「これ、蟇目《ひきめ》よ、遊び半分で死んでみせるのもたいがいにせぬか。いちいちそれにつきあわされるわしの身にもなって欲しいものだ」  老人がそう声をかけるのにも、蟇目はほとんど興味を示さない。あいかわらずニヤニヤ笑いを浮かべながら、地面にあぐらをかき、その脛をボリボリ掻いている。  蟇目、飛礫《つぶて》、それにこの老人、なんとも奇怪な連中だった。  疾風《はやて》はその眼でたしかに蟇目が短刀で自分の首を刺すのを見ている。  それがそうして平然と生きているのも不思議だが、そのことをこの男たちが当然のことのように受けとめているらしいのも不思議だった。 「この老いぼれめはわれらの仲間でもがりと申します。殯《もがり》——」  飛礫がそういい、その指で空に殯の字を書くようにした。 「いわば蟇目めの後見人のような老いぼれでございましてな。この者がひかえていればこそ、蟇目めもいくたびも生き返ることができるのでございますよ」 「…………」  疾風は呆然としている。  たしかに蟇目は生き返った。生き返ったとしかいいようがないが、それを目《ま》のあたりにしても、疾風はまだそのことを信じきれずにいる。そんなことが信じられるはずがなかった。  殯という老人は、蟇目の後見人だというが、あるいはそのあたりにこの生き返りの秘密が隠されているのかもしれない。  殯……  古墳時代、死者の蘇生復活を待つ儀式を称して�殯�と呼んでいた。貴人の場合には、三年ものあいだ、この殯をして、柩《ひつぎ》に食事を供え、歌舞音曲をやり、哭泣《こくきゆう》をおこなう習わしになっていたという。  もちろん�殯�の故事などは疾風の知るはずのないことだった。疾風はただこの奇怪な男たちをまえにして、 「おまえたちは何者なのだ?」  そう尋ねるのがやっとだった。 「われらは自分たちのことを御贄《おにえ》衆と呼んでおりましてな」  と、これは殯が答える。どうしてだか、歯のない口を開けて、いかにも嬉しそうだ。 「おにえ衆?」 「左様……御贄衆といえば、なにやらたいそうにも聞こえましょうが、なに、われらは棟梁《とうりよう》ひとりに、仲間が八人——陰陽師《おんみようじ》、琵琶法師、こも僧、猿楽師、念仏僧……田畑を持たず、芸を売り、ときには托鉢《たくはつ》をしながら、諸国を遍歴して歩く。いやはや、お話にもならぬ乞食同然の身のうえでおざってな」 「おお、おまえたちは無縁所の者なのか」  疾風はそう納得した。  戦国時代、諸国には無縁所と呼ばれる寺があった。  そこに駆け込んだ人間は、世俗の貸借関係を断ち切ることができ、どんな重犯罪人であっても、その罪を問われることがない。  こうした無縁所は田畑の寄進を俗権力から受けることがなく、寺僧の生活はすべて遍歴する托鉢乞食によって支えられていた。  つまり寄進による縁とは関わりがないというわけで、こうした寺の無縁者たちは諸国の関所を自由に通行することができ、律料などの交通税を免除される場合が多かった。  戦闘のあいだを縫い、敵味方にかかわりなく、戦死者を供養するいわゆる陣僧も、こうした無縁所の人間であることが多く、「敵味方の沙汰に及ばず」といわれていた。  それがつまり無縁の者であって、こうした無縁人であれば、なんとか疾風の理解の範疇《はんちゆう》にあった。 「左様、まずそんなところで……」  殯はニヤリと笑った。  しかし、御贄衆を単純に無縁の者と同列に考えてもいいものかどうか? この男たちには無縁の者には見られない一種独特の凄味、妖怪性のようなものが感じられる。  古代、大和朝廷によって征服された、国栖《くず》や隼人《はやと》などの先住民たちは、王権への服従、帰属の誓いとして、自分たちの芸能を捧げることを強いられた。これを�御贄�と呼んでいたが、そのことがかれら御贄衆に関係があるかどうか。  いずれにせよ、そんな古代の知識が、疾風にあるはずがなく、彼女は彼女に理解できる範囲で、かれらのことを納得するしかなかった…… 「その御贄衆とやらは、皆おまえたちのように死んだ者を生き返らせる術を心得ているのか?」  この者たちは無縁の者。——とりあえずそう相手の正体が知れると、疾風は若い娘らしく、その胸に勃然と好奇心が湧いてくるのをおぼえた。 「いや、それはわしだけの術でござってな。それも生き返らせることができるのは、この蟇目のように生きんとする力の異常に強い者にかぎられておりまする。なにさま、この蟇目、それこそひき蛙のように、突いても、切っても、滅多に死ぬことのない男でおざりましてな——」  殯《もがり》はあいかわらず歯のない口を嬉しそうに開けながら、 「われら御贄《おにえ》衆、いってみれば皆、黄泉《よみ》の国の住人でござりましてな。現世の衆には思いもつかぬ術をそれぞれに持っているのでござりまするよ」 「黄泉の国の住人……」 「はい、左様で」  殯はまじめな顔でうなずいた。 「われらは死者たちとはごく近しい縁戚でござりましてな」  ——この者、正気か?  疾風はあらためて殯の顔を見つめた。殯は平然と疾風の顔を見返している。  なるほど、たしかに殯は黄泉《よみ》の国の住人を名乗っても、ふしぎはないほどの老齢にはちがいない。  が、そうではあっても、みずから黄泉の国の住人と称するのは、とうていまともな人間の言葉とは思えなかった。 「この一乗谷に入ってきている御贄衆はおまえたち三人だけか」 「いえ、ほかの者もおいおいご当地に足を踏み入れてくるはずでございます。いずれは棟梁以下、御贄衆が八人、皆が顔をそろえることになりましょう」 「なぜだ? なにゆえにおまえたちは一乗谷に集まってくるのだ?」 「はて、お嬢さまにはお気づきになられませぬか」 「なにを?」 「この一乗谷に暗雲がたちこめているのを」 「…………」 「われら御贄衆はたしかに黄泉の国の住人ではございますが、われらにはわれらなりに掟というものがおざりましてな。面倒ではあっても、現世とのからみもあながち捨ておいてばかりもいられぬのでございまするよ」 「この一乗谷に暗雲がたちこめていると申したな」 「はい」 「わたしの父は朝倉家の禄《ろく》を食《は》む者、その言葉、聞き捨てにはできぬ。一乗谷にどんな暗雲がたちこめていると申すのだ?」 「明智十兵衛光秀——」  殯はズケリとそういい、疾風はただまじまじと相手の顔を見つめるばかりだった。  明智光秀の名は聞いている。  とはいっても……  鉄砲上手を認められ、最近、朝倉家に召しかかえられた。——疾風が知っているのはその程度のことで、事実、明智光秀は朝倉家において、その程度の人物としか見なされていなかった。  五百貫文の知行とり。家中ではだれからも軽んじられている身分で、そんな明智光秀を一乗谷にたちこめている暗雲といわれても、とっさにはそれを受け入れる気になれるはずがなかった。 「明智光秀、あれは恐ろしい男でございますよ——」  飛礫《つぶて》がつぶやくようにいった。 「いや、明智光秀本人よりも、その背後で糸を引いている人間が恐ろしい。明智光秀をそのままにしておいてはなりませぬ。あれはかならずや朝倉家に災いをもたらす男でございます。それも取り返しのつかない災いを」 「明智光秀がその暗雲だとして、おまえたちはそれをどうするつもりなのだ?」 「取り除きましょう。やはり殺さねばならぬでしょうなあ」 「…………」  無縁の身分の人間が、とるにたりない軽輩とはいえ、れっきとした朝倉家の家臣を殺さねばならぬ、といい放っているのだ。これには疾風も返す言葉をうしなった。 「殯めは御贄衆には御贄衆なりの掟がある、そう申しましたが、じつはわたしは朝倉家にはいささかなりと縁のある者でございましてな。そのためにも明智光秀が当家に災いをもたらすのを、みすみす見過ごしにはできぬのでございますよ」 「朝倉家に縁がある? おまえが、か」  思いもよらないことだった。疾風はあらためて飛礫の顔を見つめた。 「はい——」  飛礫はそううなずくと、遠い過去をなつかしむような視線になった。 「お亡くなりになられた朝倉|宋滴《そうてき》さま、わたしはあの方にお仕えしていました。とるにたらない小者ではありましたが、宋滴さまにはずいぶんと可愛がっていただいたものでございます——」 「宋滴さまに……」  もちろん朝倉宋滴の名前は知っている。知らないはずがない。  宋滴は疾風が生まれた年に死んでいて、すでにそれから十一年が過ぎている。それでも宋滴の名前が忘れられることはなかった。  その勇猛果敢な闘将ぶりは、いまも朝倉家に語り継がれ、朝倉宋滴はすでに伝説的な存在と化しているといってもよかった。  この飛礫という旅の僧が、その宋滴に仕えていたというのだから、これは疾風ならずともおどろくのが当然だった。 「宋滴さまがお亡くなりになられて、わたしはすっかりこの世がいやになってしまいましてな。それで一乗谷を離れ、諸国を遍歴する身になったのでございますが、朝倉家の一大事を聞きおよんで、いまこそ宋滴さまのご恩に報《むく》いるときだと、そう思いさだめて、この地に舞い戻ってきたのでございます」 「おまえたちの言葉、わたしには解《げ》せぬことばかりだ。一乗谷に暗雲がたちこめているという。その暗雲は明智光秀だという。明智光秀のような新参者がどんな災いをお家にもたらすというのだ?」 「はい、そのことでございますが——」  飛礫はそういいかけ、フッとその視線を宙に這わせた。それまで穏やかで、優しげだった顔が、急に引き締まった、緊張したものになった。  飛礫の右手がひらめいた。  刀術の修行を積み、人よりははるかに眼がいいはずの疾風が、飛礫の動きをまったくとらえることができなかった。  石礫《いしつぶて》を打った、疾風がそう気がついたときには、もうその石は墓地をとりまく林のなかに吸い込まれている。  カサとも音がしなかった。石礫の音がする替わりに、 「この墓地は取り囲まれているぞ。手遅れにならぬうちに逃げ出したほうがいい」  そんな声が聞こえてきた。  なんとなく間延びしたような声で、覇気というものを感じさせない。どこから聞こえてくるのか、夜の風のように頼りなげな声だった。 「直面《ひためん》かや?」  と、これは殯が声をあげる。 「うむ、おれだ」  ヒソヒソと声が返ってくる。 「相手の数はまず二十、おまえたちだけならおれも案じたりはせぬが、飯田さまのお嬢さまがおわせられる。ここは大事をとって逃げ出したほうがよかろうよ」  疾風は墓地を見まわしたが、林、石塔、石仏、その陰にわだかまる闇のどこにも人の姿などは見えなかった。 「そういうことなら、ここは退散したほうがよかろうて」  殯はそうつぶやくようにいうと、その鹿杖をヒョイと肩に載せた。 「直面——」 「おいよ」 「お嬢さまはおまえにまかせる。お嬢さまの身に毛ほどの傷もつけてはならぬぞ」 「自信はないが、まあ、やってみようよ」  あいかわらず闇のなかから聞こえてくる声には緊迫感というものが感じられない。いまにも眠りこんでしまいそうなヒソヒソとした声だった。 「わたしのことなら要らざる心配だてはしてもらうまい。こう見えても自分の身ぐらい自分で護《まも》ることができる」  事態の急変についていけないまま、疾風はそう殯に抗議をした。ただ愚かしく、弱いばかりの女とは思ってもらいたくない、疾風にはそんな強い矜持《きようじ》の念がある。 「そうでもありましょうが、ここはひとまず身を引いてはいただけますまいか。お嬢さまの身に万が一のことがあれば、わしらが棟梁からきついお叱りを受けることになりますのでな——」 「棟梁? おまえたち御贄《おにえ》衆の棟梁とは何者なのだ?」 「闇の太守さま……贄塔九郎《にえとうくろう》という御仁でございますよ」 「贄塔九郎……」  ふしぎな響きを持つ名だった。疾風がそう口のなかでその名をくりかえしたとき、 「来る」  それまで地面にあぐらをかき、ただ脛を掻いているだけだった蟇目が、のっそりと立ちあがった。ニヤニヤ笑いはいつものことだが、その表情には一種独特な凄味のようなものが感じられた。    2  ふいに闇のなかに白刃がひらめいた。月の光をあびて、おびただしい数の白刃がススキの原のように揺れた。  足音が入り乱れるようにして聞こえ、何人もの男たちが抜刀し、あるいは林のなかから、あるいは石塔のかげから飛び出してきた。 「斬れ、斬れ!」 「ひとりも逃すな」 「皆殺しにしろ」  口々にそんなことを喚《わめ》きながら、突進してくる。  一応は侍の姿をしているが、蓬髪《ほうはつ》に、破れ衣のその風体は、禄を食《は》んでいる武士のものとは思えなかった。牢人、それも野ぶせり同然の食いつめ牢人にちがいない。  牢人たちは黒い布で顔を覆っている。  しかし、疾風はそのなかの何人かに、たしかに見覚えがあった。あの詫び事の場に来ていた鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》の手の者にちがいなかった。  ——閻魔冥官《えんまめいかん》はいないか。  疾風は反射的にその姿を探した。  幸いに、というべきか、冥官の姿は見当たらなかった。夜で、しかも牢人たちはおびただしく入り乱れているが、疾風が憎い冥官の姿を見落とすはずがなかった。  閻魔冥官がいないことにとりあえず安堵の念をおぼえた。  ——冥官とはいずれは決着をつけなければならない。  そう考えてはいるが、なにぶん敵の人数があまりに多すぎた。  さすがの疾風も、これだけの人数を相手にし、しかもそこに冥官が加わっていたのでは、とうてい逃げおおせるだけの自信がなかった。 「なにゆえの無法だ。わたしを飯田仁右衛門の娘と知っての狼藉《ろうぜき》か」  疾風は飛びすさり、抜刀しながら、そう叫んだ。 「うぬ」  先頭を走ってきた男が、上段に刀をふりかざし、猛然と斬りかかってきた。  たかの知れた牢人、疾風にはそう相手を軽んじる気持ちがあった。  それが間違いだった。その男の踏み込みは思いのほかするどかった。  刀術もなにもない。実戦できたえあげられた、ただ相手を殺すだけの剣法だ。それだけに侮《あなど》りがたい剣風をはらんで、ブン、と音をたてて、疾風の頭上に落ちかかってきた。  もちろん、疾風はその一撃をかわすことはできたろう。しかし、おそらくは体の安定を崩していたはずで、やつぎばやに攻撃をしかけられれば、それを避《よ》けきることができたかどうか。  カッ!  鋼《はがね》を打ち鳴らすような音が響いて、男の手を離れた剣が、月の光のなかに舞った。  殯《もがり》がその鹿杖を伸ばし、男の剣を払いのけたのだ。その老体には似合わぬ敏捷な身のこなしで、すかさず鹿杖を牢人の腹に突き入れている。 「ぐふっ」  牢人の腹を押さえた両手の指のあいだから鮮血がしたたり落ちる。殯が鹿杖を引き抜くと同時に、牢人の体は前のめりに地面に崩れていった。  鎌槍《かまやり》と呼ばれる槍がある。  槍の穂先に三日月型の横刃《よこば》をとりつけたもので、槍の名手、宝蔵院|胤栄《いんえい》が水に映った月影からそれを考案したものだという俗説がある。  殯はどうやら鹿杖をその鎌槍のようにしてあやつるすべを心得ているらしい。  鹿杖を鎌のように半円に薙《な》ぐと、疾風に斬りかかろうとしていた牢人たちが、それを避《さ》けて、慌てて後ずさった。 「飯田のお嬢さま、この場はわしらにまかせて、ひとまず退散なされたほうがよろしかろう——」  すぐにも老衰で死にかけているように見える殯が、いまは鹿杖を頭上にかまえると、ひどく若々しい声でそういった。 「このように卑しい者たち、お斬りになられても、刀の汚れになるだけでござりましょうよ」 「なにを馬鹿な! この人数を相手にして、おまえたちだけ残していけるものか」 「ご案じめされるな」  と、これは背後から飛礫《つぶて》がそういった。 「われらは御贄《おにえ》衆、なみの人間には思いもよらぬ、おもしろい術を様々に心得ておりまする。このような牢人者たちに、やわか遅れをとるものではございませぬ」 「左様……」  殯がクックッと喉の奥で笑った。 「ありていに申しあげれば、あなた様がそこにおいでになられると、いささかわれらの足手まといになりますのでな」 「あ、足手まといだと! 無礼な——」  疾風はそう怒ったが、自分たちの存在を無視され、一方的に物事を運ばれている牢人たちには、なおさらこれは腹立たしいことだったにちがいない。 「こ、こやつら、人を馬鹿にしおって」  なかのひとりがそう呻《うめ》くようにいい、牢人たちの怒りが膨らんで、その剣気がいっそう緊張をはらんだものになった。  ひとり残らず切り捨てろ! だれかがそう叫んで、その声にあおられたように、牢人たちはドッと押し寄せようとした。  そのまえに蟇目《ひきめ》がノッソリと立ちふさがった。  いや、ノッソリと立ちふさがったように見えたが、意外にその動きは敏捷だったのかもしれない。敏捷で、しかもふしぎな威圧感を持っていた。  一斉に斬りかかろうとした牢人たちが、たたらを踏むようにして、それを思いとどまったほど、蟇目の姿には一種異様な迫力がそなわっていたのだ。 「お行きなされ」  蟇目は疾風に短くそれだけをいうと、ノソノソと牢人たちのほうに歩いていく。  もちろん、まったくの素手であることはいうまでもない。無謀というより、ほとんど気ちがい沙汰といってもいい行為だった。  牢人たちが気押《けお》されたように後ずさりをする。  蟇目にはおよそ殺気というものが感じられない。この無防備な大男をまえにして、これをどう判断したらいいものか、牢人たちもとまどっているようであった。 「出てこぬかや、直面《ひためん》、早うお嬢さまをご案内せぬか!」  殯がそう叫んで、 「心得た」  背後からそう声が返ってきた。  疾風は思わずおどろきの声をあげた。  いつのまに現れたのか、月の光が凝集して、人の姿をむすんだとしか思われない唐突さで、そこにひとりの男が立っていた。  総髪の、まだ若い男だった。破れた着物に、白い袴を穿《は》いていて、全体になんとなくナヨナヨした印象がある。  奇妙なのはその顔だ。白皙《はくせき》の、まずは美男といっていい顔だちだが、極端に無表情で、ほとんど生気というものを感じさせない。仮面めいた顔つきだった。  ——猿楽師か。  それが疾風の第一印象である。  これが直面と呼ばれる男であるらしく、やはり御贄衆のひとりであるようだ。  が、この男には、ほかの三人には共通して見うけられる、一種独特な凄味のようなものはまったく感じられない。これでものの役に立つのか、そう疑いたくなるような、弱々しく、はかなげな容姿だった。 「直面よ、こやつらはわしらが退治する。うぬはお嬢さまをお護りして、ここから逃がしてさしあげるのだ」  飛礫がそういうのに、 「あまり自信はないのだが、是非にというのであれば——」 「もちろん是非に、のことだ」 「やむをえぬなあ。それではなんとか工夫を凝らしてみようよ」  直面はそうため息をつくと、疾風のほうに手を差し出し、ボソボソと覇気の感じられない声でいった。 「それがしについてまいられよ」  とっさに疾風がこの男を信頼する気になれなかったのも当然だった。こんな頼りなげな男に身柄をゆだねたのでは、助かる命も助からないのではあるまいか。  そのとき……  ついにひとりの牢人が忍耐の限界に達したらしく、キェーッ、と気合の声を発すると、上段から蟇目に斬りかかってきたのである。    3  蟇目《ひきめ》の巨体が飛んだ。  牢人の懐に飛びこむようにして、いましも振り下ろそうとしていたその肘《ひじ》を、両手でガッシリと押さえ込んだ。 「うむ」  牢人が呻き声をあげる。  その腕を懸命に振り払おうとしているようだが、蟇目の体はピクリとも動かない。牢人の顔が醜く充血し、その眼が大きく見ひらかれた。  上背も、その体格も、はるかに蟇目のほうが勝っている。肘を押さえこまれた牢人は、どうにもそれを撥《は》ねのけることができず、惨《みじ》めなほど無力に感じられた。 「ええい、なにをしている!」  ついに耐えかねたのか、牢人はそう悲鳴のような声をあげた。 「いまのうちだ。いまのうちにこいつを仕留めてしまえ!」  蟇目がニヤリと笑った。たしかに笑った。  左手だけで牢人の両方の肘をたばねるようにし、右手をヒョイと離すと、それで牢人の顔をわし掴みにした。  右手の指が牢人の顔に食い込んでいく。牢人の顔が見るみる変形していく。バリバリと骨の砕ける音が聞こえてきた。 「グフウッ」  牢人は声をあげたが、それは悲鳴にもならなかった。息の洩《も》れるような声が聞こえ、鼻から、口から、耳から鮮血がほとばしった。  あまりのことに、ほかの牢人たちもこれを食い止めることはできなかったようだ。ただ呆然として、自分の仲間の顔が卵の殻のように押しつぶされるのを見ている。  蟇目は手を離した。牢人の体はいったん蟇目に凭《もた》れかかり、それからズルズルと地面に崩れ落ちていった。  いつのまにか牢人の刀は蟇目の手に移っていた。  それを片手だけで、ブンブンと振りまわしながら、蟇目は牢人たちのほうに進んでいく。  牢人たちは後ずさった。後ずさらざるを得なかった。  たいへんな蟇目の怪力だが、それよりも驚くべきは、むしろその体に起こった変化のほうだった。  蟇目の全身から汗が噴き出している。  いや、それを汗と呼んでもいいものかどうか、黒く、粘っこい液体が、蟇目の顔といわず、腕といわず、フツフツと噴き出しているのだ。まるで水を頭からかぶったように、その液体は蟇目の全身を濡らし、黒い筋を曳いて、その肌を伝っている。  それと同時に異様な、なんとも形容しがたいにおいが、その体からムッと臭いたって、それが夜の闇のなかに拡がっていった。  悪臭、それもとてつもない悪臭というべきだが、牢人たちが悲鳴をあげて、ドドッと後ずさったのは、なにもそればかりが理由ではないようだった。  その臭いのひどさもさることながら、そこにはなにか人間の根源的な恐怖とでもいうべきものに、恐ろしくてならないなにかに触れるものが感じられたのだ。牢人たちが面をそむけたのは、悪臭を避けるためというより、むしろその恐ろしいものから逃れるためであったようだ。  疾風もまたその臭いに接して、全身が総毛だつかのような恐怖感をおぼえている。その恐ろしさが何に由来するのか、それも分からないまま、自分の顔から血の気が引いていくのをはっきり感じていた。  その臭いにもたじろがず、殯《もがり》、それに飛礫《つぶて》のふたりは、むしろ嬉々として、牢人たちのほうに足を踏み込んでいく。  殯の鹿杖が宙を薙《な》いで、飛礫の手から石礫が飛んだ。ひとりは喉をかき切られ、もうひとりは眼をつぶされて、悲鳴をあげながら、地面に転がった。  蟇目が全身から発する悪臭に打ちひしがれて、牢人たちは完全に戦意を喪失しているようだ。殯と、飛礫が自分たちに迫ってくるのにも、なす術がなく、ただひたすら後退していくばかりだった。 「あれでしばらくは持ちこたえることができましょう。さあ、いまのうちにここを退散すると致しましょう」  直面《ひためん》があいかわらずボソボソと生気のない声でいった。 「これは何なのだ。この臭いはいったい何なのだ?」  腕で鼻を押さえながら、そう疾風が尋ねるのに、 「なに、死臭でございますよ——」  直面はこともなげにそういった。 「あの蟇目という化物は汗のにおいのなかに死臭を混じらせることができるのです。それがしはなにやら下品《げぼん》な気がして、あの術は使うな、と口を酸っぱくして、そう申しているのですが、蟇目めはいっこうにそれを聞きとどける気配がありませぬ。人はだれしも死臭を嫌うもの、こうしたときにはあんな芸でも、それなりに役に立つもののようでございますなあ」 「死臭……」  疾風は呆然としている。  ——われら御贄《おにえ》衆、いってみれば皆、黄泉《よみ》の国の住人でござりましてな。現世の衆には思いもつかぬ術をそれぞれに持っているのでござりまするよ……  殯のそういった言葉がにわかに生々しい実感をともなって、疾風の胸に迫ってきた。  なにを馬鹿なことをいっているのか、それを聞いたときには、疾風はその程度にしか考えなかった。老いぼれた無縁人のたわ言ぐらいにしか感じなかったのだが、いまはそれがたしかに本当のことにちがいない。そう思えるようになった。  死んだ人間がこの世に復活し、のみばかりかその体から死臭を発散するのだ。しかも、この直面という男は、それをなにも特別なこととも思っていないようで、下品な術、とそうあっさりと一言で片づけようとする。  ——われらは死者たちとはごく近しい縁戚でござりましてな。  いまとなっては、その殯のことばを全面的に受け入れざるを得なかった。  この者たちはいったい何者なのか! そんな疑問があらためて疾風の頭のなかに浮かんできた。御贄衆、かれらはそもそもなにを目的にして、この戦国の世を遍歴しているのだろうか? ……  だが、いまの疾風にはそれを問いただすべき時間はないようだった。 「さあ、おいでなされませ」  直面がそういい、サッサと先にたって歩みはじめた。疾風もその後にしたがわざるを得なかった。  背後から牢人たちの悲鳴の声が聞こえてきたが、直面はそれにもふりかえろうともしなかった。  同時刻……  この深夜に、ふたりの家臣が朝倉館を訪れて、義景の面前に罷《まか》り出ている。  いや、家臣といいきっていいものかどうか、いささか疑問が残らないではない。  そのうちのひとり、飯田仁右衛門はたしかに朝倉義景の家臣であるが、もうひとりの鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》は、むしろ義景の舅《しゆうと》ともいうべき人物だったからである。  義景の刑部に接する態度は、家臣に対するそれではなく、いつもながらの婿、舅の礼儀を失しようとはしなかった。  静かだった。  人払いがされ、いつも義景の側にはべっている小姓も、いまは別室に退《さ》がっている。  灯火の揺らめきが三人の影をぼんやりと天井に浮かびあがらせている。 「今日、明智十兵衛光秀と話をした。十兵衛が敦賀《つるが》におわせられる義秋さまのお覚えがいいことは、おぬしらも存じておろう——」  義景がそう口を切った。 「それで十兵衛めは義秋さまのご意向を伝えに参ったのだ」 「恐れながら、明智十兵衛光秀、あの者、なんとはなしに胡乱《うろん》なところが感じられます。あまりご身辺にお近づけにならぬほうがご賢明かと存じますが——」  仁右衛門がそういい、義景の眉のあたりにかすかに癇《かん》性らしい痙攣《けいれん》が走った。  義景はこのところ飯田仁右衛門をけむたく思うようになっている。仁右衛門の言葉が忠心からのものであることを疑ったことはないが、なにかとさしでがましい口をきく、そう不愉快に感じているのだ。 「十兵衛はたしかに流れ者ではあるが、それだけに才がきく。ああした者を器用に使いこなしてこそ、国の政《まつりごと》もうまく切りまわせるというものではないか——」  義景はそういい、 「そのなによりの証拠に、十兵衛はいい話を持ち込んできおったぞ。義秋さまがお力添えをしてくださり、加賀の一向一揆との和議をとりなしてくださるというのだ。加賀一向一揆との戦《いくさ》もいささか長くなりすぎたようでもある。ここらでひとまず戦をおさめるのも悪い話ではあるまい」 「加賀一向一揆との和議を……」  これは仁右衛門にも思いもよらない話であった。さすがにその表情におどろきの色が浮かんでいる。  これまで朝倉家はどこからも領内に攻めいられたことがなく、たしかに内政的には平和な日々がつづいている。  が、戦国の世に一国をかまえる以上、朝倉家だけが安逸《あんいつ》をむさぼるわけにはいかなかった。  朝倉義景はこのところ、南北両面において軍事作戦をくりひろげていて、きわめて多忙な毎日を送っている。領内に適当な地がないこともあったが、なにより軍事的に多忙でありすぎたために、足利義秋を一乗谷に迎えるだけの余裕がなく、敦賀の地にとどめているのだった。  とりわけ北方では、加賀の一向一揆の執拗な攻撃がつづいていて、気持ちの休まるときがないといってよかった。  このようなとき、加賀一向一揆との和睦《わぼく》を調停する人物が現れ、しかもそれがいずれは将軍職を拝命するはずの足利義秋であったのは、朝倉義景にとっては、願ってもない幸運だったかもしれない。 「わしはな、いささか疲れた——」  義景は正直にそう心情を打ち明け、 「加賀の本願寺勢との戦にはきりというものがない。追っても、追っても、きゃつら夏の青蝿のようにしつこくたかってくる。もうそろそろ和議を考えてもいい頃だとそう思うようになった」 「それはたしかに一向一揆との和睦をお決めになられるのは、賢明なご判断かと存じますが、それがしには義秋さまがなにゆえに調停に乗り出される気になられたのか、そのことがいささか腑におちませぬ。義秋さまはなにを考えておられるのでしょう?」 「義秋さまはな、わが朝倉家が義秋さまを擁立し、大軍を発して、京に上洛するのを願っておいでじゃ。三好、松永の徒を都より追い払い、そのうえでおんみずからが将軍職に就《つ》くことをお考えになられている——朝倉家が軍を発するのに、後顧《こうこ》の憂いがあってはならぬ。それゆえに当家と本願寺との和睦を調停なさる気になられたのであろう」 「…………」  それを聞いて、仁右衛門は考えこむような目つきになった。  足利義秋はけっして将軍職に迎えられるのを座して待っているようなおとなしやかな人物ではなさそうだ。義秋が頻繁に諸国に手紙や使者をやり、上杉や織田などにしきりに上洛《じようらく》をうながしているという噂は、仁右衛門も何度か耳にしたことがある。  それが敦賀の地に迎えられ、今度は朝倉義景に眼をつけたということなのだろう。  朝倉義景には将軍を擁立し、天下をおさめようなどという野望はないし、また残念ながらその器《うつわ》でもない。  しかし、日本最強の軍団ともいうべき上杉家が、義秋を擁立し、京に向かって軍を発すれば、その勢いのおもむくところ、朝倉家もまた動かずにはいられない。また美濃を手中におさめた織田信長が、将軍を擁立し、京に向かえば、朝倉家の立場ははなはだ困難なものにならざるを得ない。  朝倉義景に野心があるかないか、あるいはその器であるかないかは、この際、関係がないといえた。義景の意志にかかわりなく、戦国の世の大きなうねりは、だれが将軍を擁立して京への上洛を果たすか、その方向に収斂《しゆうれん》しつつあるようだった。  朝倉義景も戦国の世に生き残るのを考えるのであれば、義秋の督促を無視してはならないし、これはむしろ朝倉家が一気に世におどり出るための絶好の機会ともいうべきかもしれなかった。しかし……  仁右衛門にはそれを提言したのが、ほかならぬ明智光秀であることが、なんとも気にいらぬのだ。  朝倉義景は十数年まえ、自分のまえに是界《ぜかい》なる奇怪な人物が現れたことは、ほとんど忘れてしまっているようだ。  仁右衛門の見るかぎりでは、義景は最初の正室であった桐姫を、その後、室に迎えることになったほかのだれよりも深く愛していたようだ。その桐姫を病死させたことが、いまだに心の痛手となって残っていて、つとめてあのころのことを思い出さないようにしているらしい。  ——それが男児であれば夭折し、女児であれば、朝倉家を滅ぼすことになろう。  おそらくは是界のあの不気味な予言も、いまはほとんど義景の記憶に残されていないにちがいない。  その後、側室に迎え入れた小宰相の局《つぼね》に男児が誕生し、いまでは桐姫が生んだ最初の女児がどうなったか、それすらほとんど気にとめることもないようだ。  仁右衛門は光秀にたいして漠然とした疑惑の念をおぼえている。光秀が是界に通じている人間であり、すべては是界の意志のままに動いているのではないか、という疑惑の念である。  が、確信があるわけではない。光秀がたしかに是界の手の者である、という動かしようのない証拠があるわけではないのだ。  光秀の正体を探るために、一乗谷を出たあと、身を寄せていたという美濃に間者を入らせたりもしているが、いまだにはかばかしい成果は得られないでいる。  要するに、明智光秀は謎の人物であり、かれが何を考えているのか、いまだにそのことが分からない。  そんなあやふやなことでは、光秀には気をつけたほうがいい、そう義景に進言したところで、ゆえのない讒言《ざんげん》と受けとめられかねなかった。  もちろん、それは仁右衛門の望まぬところであったし、なによりもそんな曖昧なことで義景にあのいやな記憶を思い出させるわけにはいかなかった。 「一刻もはやく北《きた》近江《おうみ》の浅井家と盟約をむすんで、義秋さまを擁立し、京に兵を押し出すべきである、十兵衛はしきりにそう勧めるのだが……わしはいまひとつ決心がつかずにいる——」  義景はそこで仁右衛門を見たが、すぐにその視線を逸《そ》らすようにした。 「どうやら仁右衛門はそれには反対のようだが……刑部殿はそのことをどのようにお考えになられるかな?」  鞍谷刑部は明智光秀とは気脈を通じあっている、仁右衛門はそのことに確信を持っている。ふたりの関係がどんなものであるか、いまだにそれははっきりしないのだが、この両者のあいだには、なにか隠された秘密があるようだった。  刑部は光秀の進言に賛成する、当然、仁右衛門はそう考えていたのだが…… 「越前朝倉家が京に出兵するなど夢のまた夢でござる。そのような夢物語にうつつを抜かし、足下をおろそかにするようであれば、加賀の本願寺はたちどころに越前に一揆を起こさせることでありましょう。よしんば義秋さまの調停で和議をむすんだところで、そのようなものが信用できるはずがありません。一乗谷を留守にしたとたん、本願寺はそのような約定《やくじよう》は反故《ほご》にし、たちどころに越前の国に攻め込んでくるに相違ありません。一国の国主たる者、光秀のような素性の知れぬ流れ者の弁に踊らされてはなりませぬぞ」  意外なことばだった。  仁右衛門はおどろいて、鞍谷刑部の横顔を見つめた。  なにを考えているのか、この貧相な老人はその無表情な顔に、ヒクヒクと頬だけをひきつらせている。  その影が灯火に揺らめいて、なにか得体の知れない生き物が一匹、そこにちんまりとうずくまっているように見えた。    4  義景の居室の天井裏にひとつの人影がうごめいている。  その影は天井の節穴から居室の様子をうかがっていたのだが、 「刑部めが裏切りおった……」  そう口のなかでつぶやくと、ツイとそこから離れた。そして天井裏の梁《はり》から梁へ身軽に渡っていく。  しなやかで、敏捷な身のこなしだった。梁にギシリとも軋《きし》みの音をたてない。  柿色の忍び装束に身をかためていたが、どうやらその肢体から、その影は若い娘であるようだった。  天井裏から屋根に抜け出して、そのうえにわだかまる闇のなかにフッと溶け込んだ。  その人影が朝倉館の広大な庭園を抜けて、塀の外に出るまで、それからわずか五分とは要さなかった。  屋敷にはむろん宿直《とのい》の者も詰めているし、庭園には警護の者もいるはずだが、まるで実体のない影のように、その女はそうした者たちの眼を難なくすり抜けたのである。  その女に忍びの術の心得があるのは間違いないようだが、それだけでその鮮やかな体術を説明しきれそうにはなかった。フワフワと漂うような、それこそ妖術としかいいようのない、ふしぎな身のこなしだった。  女はそのまま武家屋敷群を抜け、一乗谷の外れのほうに走っていく。  その柿色の忍び装束が月明かりのなかに溶けこんで、女の姿はほとんど視線にとどまるということがない。この深夜に、だれか戸外に出ている者がいたとしても、その人間の眼にはただ赤い光が、流れ星のように地上をかすめていくのが見えるだけのはずだった。 「鞍谷刑部が裏切った……」  女はさきほどから呪文のように、何度もそう口のなかでくりかえしていたが、ふいに走るのをやめると、その場にうずくまった。  闇のなかを透かし見るようにして、 「だれだ?」  低い声でそう問いかける。  しばらくはなにも聞こえてこなかった。闇のなかにはコソとも動くものの気配がなく、ただしんと静まり返っているだけだった。  しかし…… 「なあ、女、そらごとをいう者を嘘つきという。これはなにゆえであるか、そのわけを知っているか?」  闇のなか、どこからともなく、そう陰々とした声が聞こえてきた。笑いを含んだ声だった。 「どこにいるのだ。出てこぬか」  女はそう叫んだが、それを受け流して、声はあいかわらず自分勝手な謎問答をつづけている。 「そのわけは鷽《うそ》という鳥がいて、これが木のそら(梢《こずえ》)にとまって、琴を弾く。それゆえにそらごとを嘘つきというのだそうだ」 「御贄《おにえ》衆か、御贄衆の者だな。つまらぬたわ言はたいがいにして、姿を現したらどうなのだ? それとも女ひとりに臆《おく》して、その身をさらすのが恐ろしいか」 「なんの恐ろしくなどあるものか。ただ鷽女《うそめ》という名前、おまえにはまことに似つかわしい名だ、そう感服しているだけのことさ」  また含み笑いが聞こえ、——  鷽女は声をあげた。  これほど抜群の体術を持っているはずの鷽女が、いまはだらしなく体の安定を崩して、その場に無残に転んでいるのだ。  地中から伸びて、鷽女の足を掴んでいる手があった。  鷽女の体に引きあげられるようにして、ズルズルと地面に伸びあがってくると、その上半身をあらわにする。 「おれは御贄衆の蟄虫《ちつちゆう》。——是界の配下に手だれの女がいることは聞いている。その女と一度お手合わせをしたくて、おれはこれまでずっとおまえに恋こがれていたのだ。鷽女とやら、年来の望みがかなって、おれは嬉しくてたまらぬわい」  地中から這いだしてきた奇怪な男はそう笑い声をはりあげた。  第七章 百舌《もず》・鵺《ぬえ》    1  蟄虫《ちつちゆう》……  ほかの御贄《おにえ》衆の面々は人間ばなれしてはいても、どこか滑稽味のようなものを感じさせるのだが、この男にはそうしたところは微塵もない。  長い髪に月代《さかやき》を伸ばし、暗く、凶暴な顔だちをした、いかにも剽悍《ひようかん》そうな男である。  ボロボロのきものにたっつけ袴《ばかま》、——腰には刀を差しているが、これが刀身が短く、鍔《つば》の大きいいわゆる忍び刀で、全体に武士とも、そうでないともつかない、なにか得体の知れない印象をただよわせている。 「鷽女《うそめ》、朝倉館に忍び込んで、なにを聞いてきた? うぬらはこの一乗谷でなにをたくらんでいるのだ?」  鷽女の足をつかんだまま、そう蟄虫は尋ねる。  ——なんといっても相手は女だ。  蟄虫にはそう鷽女をあなどる気持ちがあったのかもしれない。いかにも無造作に鷽女の足をつかみながら、その声は楽しそうでさえあった。  だが……  鷽女はなみの女ではなかった。地面に仰向けになったまま、ふいに体を撥ねあげると、その足で蟄虫の胸を蹴りつけたのだ。  さすがに蟄虫も蹴りつけられるままにはなっていない。身を反転させると、すかさず反対側に転がっている。  たがいに立ちあがり、パッと飛びすさった。そのまま三メートルほどの間隔をおいて睨みあう。 「女、なかなかやるな。けなげにもおれとやりあうつもりか」  蟄虫もそういい、あらためて鷽女の姿をまじまじと見つめるようにした。 「それにしてもうぬはなかなかに美しい。この世のことはうまくいかぬものだ。いや、勿体ない話だ。うぬが敵でなければ、このおれが存分に可愛がってやるものを——」  蟄虫は好色そうな表情になっている。  たしかに鷽女は美しい。それもありふれた美しさではなく、体の内側から生命力があふれ出るような、異様な生気の感じられる美しさだ。  忍び装束に身をかためていても、そのしなやかな肢体は隠しようもなく、蟄虫ならずとも眼を奪われて当然だったかもしれない。 「————」  鷽女《うそめ》の顔をサッと怒りの色が掃いた。  この妖しの女もさすがに蟄虫の不遠慮な視線には腹にすえかねるものを覚えたのにちがいない。馬鹿が! そう吐き捨てるようにいうと、ふいに右手をひらめかせた。  その手から黒い鉄金具がおびただしく放たれた。忍者の使うマキビシだ。 「しゃあっ」  蟄虫《ちつちゆう》はすばやく飛びすさる。飛びすさったが、その動きは狼狽しているふうではなく、余裕のようなものが感じられた。  そのあとを追うようにし、マキビシはザアッと霰弾《さんだん》のように音をたてて、地面に突き刺さった。  そのときになっても蟄虫の唇にはまだ余裕のある笑いが浮かんでいた。なんとなく鷽女をあしらっているような、相手を小馬鹿にした表情だ。 「うぬ」  それが鷽女には我慢のならないものに思えたにちがいない。また一掴みマキビシを取り出すと、それを頭上にふりかざした。  しかし……  鷽女はマキビシを投げることができなかった。悲鳴をあげた。  悲鳴をあげながら、鷽女は身をよじるようにして、地面をゴロゴロと転がった。その悲鳴に蟄虫の笑い声が重なるようにして聞こえてきた。 「おれを怒らせぬほうがいい。おれを怒らせると、あたらその柔肌が虫に噛まれて、だいなしになってしまうわい——」  蟄虫の笑い声が高くなり、鷽女の悲鳴もいっそう甲高いものになった。  鷽女が悲鳴をあげるのも当然だった。どんなに剛毅な人間もこれには悲鳴をあげざるを得まい。  虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、……  鷽女の下半身におびただしい虫がたかっているのだ。それが生きた黒布のようにびっしりとこびりついて、ザワザワとおぞましく波打っている。  鷽女がどんなに幻術《めくらまし》に長《た》けていようと、自分の体が虫に食いつくされるこの恐怖に耐えられるはずがない。ただ地面を転げまわり、ひたすら悲鳴をあげつづけるだけだ。 「それはな、死体にたかる虫たちだ。死んだ人間の肌を食い破り、五臓を食らいつくす屍虫《しちゆう》たちよ。いまはまだなにもせぬが、おれを怒らせれば、たちどころにそやつらはおまえの肌を食い破る。六穴から体内に入り、おまえの五臓をズタズタにしてしまうわい。おれを怒らせるなよ。おれはな、屍虫を思うがままあやつることができるのだ——」  蟄虫の笑い声には勝ち誇ったような響きがあった。  よく肥えた一グラムの土にはおよそ一億匹の微生物がいる。微生物は細菌を食べ、その微生物をまたダニが食べる。もちろん微生物を見ることはできないが、それを食べる虫たちは眼にすることができる。  一億匹の微生物を餌にしている虫たち、——それがどんなにおびただしい数にのぼるか、それは想像するのもむずかしい。もちろん土中に埋められた死骸を分解するのは、こうした屍虫たちである。  なんという奇怪な男であることか、この蟄虫という男は、そうした屍虫を自在にあやつることができるらしいのだ。  おそらくは体液にでも、そうした屍虫の好む成分が含まれていて、それを汗腺から分泌することによって、虫たちを思うがまま動かしているのにちがいない。その意味では、この男の体質には、全身から死臭を放つ蟇目《ひきめ》と一脈あい通じるものがあるようだ。  この場に疾風《はやて》がいれば、またしても殯《もがり》のことばを思い出すことになったろう。  殯は自分たちのことを、  ——われら御贄《おにえ》衆は、いってみれば皆、黄泉《よみ》の国の住人でござりましてな。現世の衆には思いもつかぬ術をそれぞれに心得ているのでござりまするよ。  そう説明したのだ。  たしかに蟇目といい、この蟄虫といい、その術にはふしぎに�死�に接する部分があるようだ。あるいは黄泉の国の住人というのは、たんなる譬喩《ひゆ》ではなく、なにか事実に触れるところがあるのかもしれない。  いずれにせよ……  おびただしい屍虫にまつわりつかれたのでは、さしもの鷽女も抵抗する気力をうしなってしまったようだ。地面に伏したまま、ピクリとも動かなくなってしまった。  鷽女のそんな姿を見て、蟄虫は自分の勝利を完全に確信したようである。 「さあ、もうあきらめて、おれの聞くことに素直に答えるがいい——」  余裕のある含み笑いをしながら、そう声をかける。 「朝倉館に忍び込んで、なにを盗み聞いてきたのだ? おまえたちはこの一乗谷でなにをしようとたくらんでいるのだ?」 「————」  鷽女がうめき声をあげた。  なにか言いかけたようだが、それを聞きとることはできなかった。  屍虫に全身をまつわりつかれた恐怖に、ろくに声を出すこともできないらしい、蟄虫はそう考え、にんまりとほくそ笑んだ。 「どうしたのだ? 鷽女、おれの術に恐れをなして、ろくに口をきくこともできぬようになったか。なにも案じることはない。おれの言いなりになっていれば、屍虫たちはおまえの体を噛もうとはせぬ。おとなしく、おれの聞くことに——」  ふいに蟄虫は喋るのをやめた。それまで自信満々に浮かべていた笑いが、こわばったようにその唇に張りついた。  鷽女はうめいているのではない。クスクスと笑っているのだ。  そして……  蟄虫はそのときになってようやく屍虫があらかた鷽女の体から離れてしまっていることに気がついたのだ。 「しゃあっ」  蟄虫は今度こそ仰天して、鷽女の体から大きく飛びすさった。  間一髪! 鷽女が体をひねり、その腰から摺《す》りあげるようにして放った剣の一撃を、かろうじてかわすことができた。  いや、蟄虫ほどの男が体の安定を崩し、無様《ぶざま》に地を転がっているのだから、本当にその一撃をかわしきれたとはいえないかもしれない。 「き、きさま、どうして屍虫から逃れることができたのだ!」  そう叫んだ声も、この男には似つかわしくなく、ひどく上ずったものだった。 「わたしをただの女と思ったか。わたしは鷽女、おまえの生半可《なまはんか》な術などが通用するはずがない————」  鷽女がうって変わって余裕のある声でそう言った。  鷽女にもまた虫をあやつることができる能力がそなわっているようだ。昆虫のメスがオスを引き寄せるのにフェロモンという化学物質を分泌することはよく知られているが、あるいはこの鷽女もそれに似た能力を持っているのかもしれない。  鷽女は以前にも秋月小次郎に胎児の幻覚を見せたことがあった。そのときの幻術《めくらまし》といい、今度のフェロモンといい、御贄衆が�死�にかかわる術を使うのに比して、この女は広い意味での生殖�生�にかかわる術を得意としているようだった。  はからずもここで�死�と�生�との戦いがくりひろげられたことになる。そして、その戦いはとりあえず�生�のほうに軍配があがったように見えた。  が、ほんとうの戦いはまだまだこれからのようであった。  蟄虫もいったんは動揺したらしいが、すぐにその体勢をたてなおした。ゴム毬《まり》がはずむように、二度、三度、闇のなかに大きく飛びすさると、地面にピタリと身を伏せた。  そして、そのまま闇のなかに溶け込んでしまい、ただ声だけが聞こえてきた。 「なるほど、さすがに音に聞こえた鷽女。これはおれがいささかうぬを見くびりすぎたようだ。油断がすぎたよ。だが、これで自分が勝ったなどと自惚《うぬぼ》れぬほうがいい。いまのはほんの小手調べ、これからおれの恐ろしさをたんと思いしらせてやる」  あながち負けおしみでもなさそうだ。その声には凶暴な笑いの響きが感じられた。  それには鷽女はなにも答えようとはしなかった。スッと後ずさり、その姿も蟄虫のように闇のなかに消えてしまう。  ふたりは互いにたがいの隙をうかがっているようだ。殺気が急速に膨れあがっていくのが感じられた。  その殺気が極限にまでのぼりつめたそのとき……  フッと。  闇のなかに張りつめていた殺気が一瞬のうちに消えうせたのだ。鷽女、そして蟄虫の気配が完全に消えて、時をおかず、それまでなりをひそめていた草藪の虫たちがしんしんと鳴きはじめる。  なにが起こったのか? ふたりの化物ともいうべき術者が、どうして急に戦いを中断させると、ふたりながらその気配を絶ってしまったのか?  その疑問はすぐに解きあかされることになった。  闇のなかにひたひたと足音が聞こえてきたのである。  小さい荷物を背負う旅の小《こ》商人《あきんど》体の男だった。  もちろん、その男はこれまでここで死闘がくりひろげられていた、などとは気がついてもいないようだ。  なにも異常は感じられなかった。虫はなにごともないように鳴きつづけていて、夜風はひんやりと肌に心地いい。  男はそのまま歩きすぎていった。  男の姿が見えなくなり、かなり時間がすぎてから、男とも女ともつかない声が、闇のなかから呻《うめ》くように聞こえてきた。 「朝倉家の間者《かんじや》が帰ってきた……」    2  男は朝倉館に向かっているようだ。  ややうつむき加減にして歩くその姿は、だれの眼にも、ただの小《こ》商人《あきんど》にしか見えないかもしれない。  しかし、その足の運び、周囲に走らせる視線に、ときおり常人のものではない鋭さが透けて感じられるようでもあった。  男は武家屋敷群を抜け、暗い路地のなかに入っていった。  男はふいにギクリと足をとめた。とっさに懐に手を滑りこませたのは、短刀でも握りしめたのにちがいない。 「だれだ?」  路地の奥を透かすようにして見ながら、男はそう声をあげる。  闇のなかに白いものがボウと浮かびあがっている。市女笠《いちめがさ》。若い女のようだ。  男はふりかえり、自分の背後にもべつの女が立っているのを認めた。路地の奥にいる女とおなじように、その女もやはり市女笠をかぶっている。 「だれだ?」  男がふたたびそう尋ねるのには答えようとはせず、 「一向一揆の動静をさぐるために加賀の国に忍びこんでいた間者。こうして一乗谷に戻ってきたからには、なんぞ耳よりな話を持ち帰ってきたか——」  路地の奥に立っている女がそうヒソヒソとした口調で言った。艶《なま》めかしく、かすれたような声だった。  女のことばは図星だったようだ。男がにわかに緊張し、その体をこわばらせるのがはっきりと感じられた。 「だれだ? おまえたちは何者なのだ」  男は短刀を引き抜いて、そう叫ぶように言った。 「わたしは百舌《もず》——」 「わたしは鵺《ぬえ》」  ふたりの女は笑い声をあげた。 「百舌に、鵺? ……」  男はけげんそうな顔になった。  妙な名であり、妙な雰囲気を持った女たちだった。男がとっさにはこれを敵か味方か判じかねたのもむりはなかった。 「なあ、間者どの。加賀の国からなにを探り出してきたのじゃ? わたしたちにそれを教えてはくださらぬか」 「ば、馬鹿な。なんでそのようなことを人に洩らしたりするものか」  男は腹立たしげにそう首を振った。  相手の口車に乗せられ、自分のことを間者だと認めてしまっている、ということに気がついてはいない。その女たちはふしぎに相手の心理の隙につけこんでいくすべを心得ているようだった。 「そんなつれないことを言わずに教えてたもれ。なあ、よいではないか。間者どの」  ふたりの女は男を挟みこむようにし、ゆっくりと歩を進めてきた。べつだん足の運びにとりたてて神経を払っているようにも見えないのに、女たちの足音はまったく聞こえてこない。  それに気がつき、このふたりの女が只者ではないことを知ったのか、男の顔に追いつめられたような表情が浮かんだ。 「い、言わぬか! おまえたちはいったい何者なのだ?」  その声はほとんど悲鳴に近かった。 「だから、わたしは百舌。捕らえた獲物はかならず殺して枝に突き刺す——」  路地の奥に立っている女がそう含み笑いを洩らした。花のように艶《あで》やかだが、おなじ花でも、それは食虫植物のように恐ろしげなものを感じさせた。 「————」  なにか殺気のようなものを察知して、男が短刀をふりかざそうとしたそのとき——  百舌と名乗った女の頬が膨らんで、プッとなにかを吹き出した。 「チッ」  不覚にも男は短刀を取り落としている。その右手には銀色の針のようなものが何本も突き刺さり、キラキラと光っていた。  男は女の思いもかけぬ含み針の妙技に驚かされたはずだ。が、男がほんとうに驚かされるのはこれからだった。  女の唇から細い筋のようなものが吐き出され、これもやはり銀色に光りながら、蜘蛛の糸のようにフワリと闇のなかに拡がっていった。 「ウワッ」  男は動転し、あわてて飛びすさったが、頭のうえに覆いかぶさってくるその蜘蛛の糸から逃れることはできなかった。  唾液か?  いや、唾液にしてはそれはあまりにおびただしい量でありすぎたし、その強靱な粘着力も異常というほかはない。なによりそのにおい、芳香としかいいようのない、そのふしぎなにおいは絶対にたんなる唾液のものではありえなかった。  甘やかで、官能的なにおい、——そのにおいに包まれ、男はにわかに自分の気力が削《そ》がれていくのを感じた。  蜘蛛の巣にからめ捕られたハエ、いままさしく男はその状態にあった。  頭のなかがクラクラと痺《しび》れたようになり、なにも考えられなくなってしまう。全身の力が急速に抜けていくのを感じた。それでいながら眼のまえの女が欲しい、その体をいますぐにでも抱きたい、その欲望だけは生々しく体の底から噴きあげてくるようだ。  一向一揆の動静を探るために、加賀の国に潜入したほどの男である。間者としての訓練も受け、それなりに骨のある男のはずだ。  それがいまは女の吐いた銀色の粘液に、体をからめ捕られ、なにより気力を削がれて、ただ呆然と立ちつくしているのだ。 「可愛や、男。さあ、わたしの聞くことにおとなしく答えるがよい——」  百舌がそう囁いて、もうひとりの女がこれも妖しい笑い声をあげた。  そのときになっても男は自分の身になにが起ころうとしているのか、それをまだ本当に理解しきれずにいた……  飯田仁右衛門、鞍谷刑部《くらたにぎようぶ》のふたりが朝倉|義景《よしかげ》のもとを辞したときには、もう真夜中もとうに過ぎた時刻になっていた。  ——加賀一向一揆との和睦《わぼく》を進め、足利義秋(義昭)を擁立して、大軍を発し、京に上洛《じようらく》するかどうか?  これは朝倉家の存亡にかかわることであり、一夜の討議で決せられるようなたやすい問題ではなかった。  ふたりはいま義景の部屋を出て、長い廊下を歩いている。  宿直《とのい》の者が灯を持って、ふたりを先導しているが、廊下は足もともおぼつかないほど暗かった。  そんな暗い廊下を黙々と歩きながら、  ——義景さまは京に出兵するのを望んでおられる。  仁右衛門はそう考えている。  義景には将軍を擁立し、あえて天下の覇者になりたいという野望はない。それどころか加賀一向一揆とのあいつぐ戦乱に嫌気がさして、いまはなにより平安な日々を望んでいるはずである。  が、——いまは戦国の世であり、朝倉家だけが安逸をむさぼるのが許されるはずがなかった。  足利義秋が越後の上杉家に使者を送り、あるいは親書を出して、しきりに上洛をうながしているのは事実であり、朝倉家としてもこれを無視することはできない。上杉が出兵すれば、朝倉家も自然に京に押し出される形になり、出兵を余儀なくされる。  また尾張の織田が将軍を擁立し、京に上洛することにでもなれば、義景は成りあがり者の織田信長のまえに膝を屈することになり、朝倉家の将来は絶たれてしまう。  上杉に押し出されるよりは、あるいは織田に遅れをとるよりは、むしろ朝倉家はみずからの意思で将軍を擁立し、京への上洛を果たすべきかもしれない。  仁右衛門もそのかぎりでは義景の決断は正しいと思う。しかし……  そこに明智十兵衛光秀が介在しているということに、仁右衛門はどうにも釈然としないものを覚えるのだ。光秀はことば巧みに義秋にとりいって、いわば仲介の労をとろうとしているらしい。  が、それが本当に朝倉家のことを考えてのことかどうか、仁右衛門はそのことを疑問に思わざるをえない。  義景は臣下の仁右衛門と、舅《しゆうと》の刑部が、上洛の話に乗り気を見せなかったのを、不満に感じたようだ。とりわけ仁右衛門が賛成しなかったのが不快だったらしく、仁右衛門を見るその眼には、たしかに憎しみの色さえ感じられた。  朝倉家の将来を考えれば、また義景の心情をくみとれば、光秀のことなどしょせんは小事と捨て去って、主君の命にしたがうべきだったかもしれない。  しかし、光秀がなにをたくらんでいるか、それを考えると、手放しで京に上洛するのに賛成する気にはなれなかったのだ。  ——宋滴《そうてき》さまがご存命であらせられれば。  仁右衛門はあらためてそう思わざるをえなかった。  しょせんは一家臣にすぎない仁右衛門の力にはかぎりがあった。義景の大叔父であり、また朝倉家きっての武人でもあった宋滴が生きてさえいれば、義景をいさめることもできたはずなのだが……  朝倉館を出て、門に向かう。  それまでただ黙々と、さきのほうを歩いていた鞍谷刑部が、なにを思ったのか、宿直の者をさきに行かせ、自分は仁右衛門のほうに戻ってきた。  そして仁右衛門に顔を寄せると、 「あの十兵衛光秀という男、あれは得体の知れぬ男であるぞ——」  ヒソヒソとそう囁きかけてきたのだ。 「あれがなにをたくらんでいるのか、このわしにもかいもく見当がつかぬが、とにかくお家にあだをなす者であるのは間違いない。飯田どの、十兵衛をなんとかせねばなるまいぞ。あれをなんとかせねば、このさき、朝倉の家に災厄《さいやく》がふりかかることになるのは、眼に見えているわい」 「————」  仁右衛門は鞍谷刑部の顔をまじまじと見つめた。  義景の面前で光秀のことを悪く言い、いままた仁右衛門に光秀のことを得体の知れない男だと言う。  刑部と光秀とは親密な仲、仁右衛門はこれまでそう思い込んでいたのだが、それには訂正の要があるようだ。あるいは、いったんは親密な仲になったのだが、それがなんらかの理由でひびが入ったのか? 「十兵衛光秀、あれをなんとか朝倉家から遠ざけることを考えねばならぬ。むろん、敦賀《つるが》の義秋さまのご身辺にも近づけてはならぬ。あの男、妙に人の気持ちにつけいるのが巧みでな、あのような者を義秋さまに近づくままにさせておけば、どんな策略を弄《ろう》せぬともかぎらぬわ」 「明智十兵衛、たしかに仰せのとおり、得体の知れぬ人物ではございますが——」 「うむうむ」 「お世継ぎ阿君《くまぎみ》さまのおん祖父であらせられる鞍谷さまに、このようなことを申しあげるのは、まことに恐れおおいこと、それを承知のうえで、飯田仁右衛門、あえて申しあげまする。鞍谷さまに真実、朝倉家のことをお案じになられるお気持ちがおありならば、なにとぞ鞍谷さまご自身にもおん身をつつしんでいただきたく——」 「なに? わしに身をつつしめとそう申すのか」 「はい。世間は口さがのないもの、鞍谷さま所領のご支配について、なにかと取り沙汰する者が少なくございません。尾張の織田、加賀の一向一揆、かれらは隙あらば、越前に攻めいろうと虎視眈々《こしたんたん》とねらっています。いまは朝倉家の禄《ろく》を食《は》む者が全員一丸となり、こうした外敵にあたらねばならぬときでございます。このようなときに、朝倉家の団結にひびを入らせるようなことは、たとえ鞍谷刑部さまといえども、厳につつしんでいただきたく——」 「に、仁右衛門、無礼であろう!」 「はい、たしかに無礼。そのことは幾重にもお詫びいたしますが、なにとぞ鞍谷さまにもいまが大切なときであることをお考えいただきたく、飯田仁右衛門、無礼をかえりみず、このようなことを申しあげました」 「————」  仁右衛門の痛烈なことばに、さすがに鞍谷刑部も鼻白んだようだ。ただ口をパクパクさせるだけで、とっさには声も出ないでいるらしかった。  仁右衛門はそんな刑部に一礼して、自分ひとり門のほうに向かった。  ——わしはあせっているようだ。  仁右衛門はそう考えている。  あせりのあまり、みすみす新たな敵をつくりあげてしまった。鞍谷刑部はこれではっきりと仁右衛門の敵にまわるにちがいない。  いつも慎重な仁右衛門には似つかわしくない行為だった。  仁右衛門はこのところ、眼に見えない暗雲のようなものが一乗谷をとりかこんでいるのを、ひしひしと肌に感じるようになっている。そのことにあせりのようなものを覚え、それでいつになく軽率な行為に出てしまったのかもしれない。  ——そういえば、このところ疾風《はやて》とろくに話をしていないな。  仁右衛門はフッとそんなことを考えた。  ——近いうちに、いや、明日にも、疾風と会って話をせねばなるまい。  急に疾風と話をするのがなにより大切なことに思われてきた。自分にはあまり時間が残されていない、どうしてかそんな予感めいた思いが強く胸にこみあげてくるのを覚えた。  鞍谷刑部は闇のなかにひとりとり残されている。  宿直《とのい》の者が、そんな刑部の様子に不審をおぼえたのか、近づいてこようとしたが、それを手で追い払った。  朝倉家の重鎮とはいえ、しょせんは一家臣にすぎない人間に、主君の舅《しゆうと》ともいうべき自分がこともあろうに意見をされたのである。あっていいことではなく、激しい屈辱感がこみあげてくるのを押さえることができなかった。  ——おのれ。  そう怒りをかきたてようとするのだが、ふしぎなほど仁右衛門にたいする怒りは湧いてこず、ただ情けないという思いだけがさきにたった。  たしかに刑部は所領の百姓に苛酷な年貢を課しているかもしれない。しかし、それも領主の舅である、という体面をたもつためには莫大な費えを必要として、自分としてはやむをえないことだと思っている。  年貢を増やすのを思いついたのも、光秀に入れ知恵されたからであり、事実、年貢を増やす以外に、これといっていい方法を思いつかなかった。  百姓たちが言いつけを聞かなかった場合にそなえて、二十人以上の牢人たちを新たに雇い入れることになったが、それもみんな光秀の口ききによる者たちである。  ——もしかしたら、わしは光秀に利用されているのではないか。  そう思わないでもなかった。いや、いまではそのことに確信を持っている。  思えば十数年まえ、義景の側室に娘を入れたい一念で、つい光秀の甘言に乗せられてしまったのが、そもそも腐れ縁のはじまりといえた。光秀は娘にねやの術を伝授し、それが効あったのか、たしかに娘は義景の側室に入ることができた。  娘、小宰相《こさいしよう》の局《つぼね》はその後、死んでしまったが、彼女の生んだ阿君は、朝倉家の世継ぎとしてスクスクと健《すこ》やかに育っている。  そのおかげで、刑部も世継ぎの祖父として権勢をふるえる身分になり、そのかぎりではたしかに光秀と結託したかいもあったといえるかもしれない。  だが……  光秀がなにを思い、自分に接近したのか、あらためて一乗谷に戻ってきたのは何のためか、そんなことを考えはじめると、刑部は激しい不安にかりたてられるのを覚える。  光秀の言いなりになって動いているうちに、自分はなにかとんでもないことをしでかしてしまうのではないだろうか、そんな不安である。  光秀が何をたくらんでいるにせよ、その陰謀が現実のものになるまえに、なんとか仁右衛門をたきつけ、光秀を一乗谷から追放してしまおう、刑部はそう考えたのだが、それはどうやら失敗に終わったようだった。  ——わしはいつまでも光秀の言いなりになっているほかはないのか。  そんな苦い思いが胆汁のように胸にこみあげてくる。  主君の舅、朝倉家でも最大の権勢を誇る鞍谷刑部が、いまは迷子のように頼りなげな表情になっていた。 「飯田仁右衛門、あれは憎い男でございまするな——」  ふいに背後からそう笑いを含んだ声が聞こえ、刑部はギクリとふりかえった。  いつからそこにいるのか、明智光秀が立っていた。 「お、おぬしは——」  刑部はカッと眼を見ひらいている。  明智光秀の豪胆さには呆れるばかりだ。いや、案内も乞わずに、主君の館に足を踏み入れるとは、もう豪胆を通りこして、無謀というほかはなかった。 「刑部さまにあのような口をきくとは、恐れいったる無礼者、あのままにはしておけませぬなあ」 「ま、待て、十兵衛——」 「ご案じめされるな。この十兵衛、仁右衛門めを追いおとして、刑部さまの無念を晴らしてごらんにいれましょう」 「な、なんと申す?」 「加賀の国に忍びいっていた間者がご当地に舞い戻ってきたようでございます」 「————」 「その者、おっつけ義景さまに報告に参上するはずでございますが、それからあとが見物《みもの》でございますよ」 「十兵衛、なにを言っているのだ? わしにはおまえがなにを言っているのか、とんと見当もつかぬわい」 「なに、その間者が仁右衛門めを追いおとす道具になるとそう申しあげているのでございますよ。仁右衛門の命運も明日には尽きることになりましょう」  光秀はニンマリと笑った。  なまじ秀麗な顔だちをしているだけに、そうして笑うと、とんでもない悪相になり、邪悪な精神がその裏から透けて浮かびあがるようにも思われる。  刑部はそんな光秀を見ながら、なにか悪寒《おかん》めいたものが背筋を駆け抜けていくのを感じていた。    3  ふしぎな男である。  直面《ひためん》……  月の光のなかに浮かびあがっているその姿は女のように優しげである。その歩き方もナヨナヨとして、優雅といえば優雅、頼りないといえば、これほど頼りなげに感じられる男もいなかった。  あの殯《もがり》という老人が、疾風《はやて》の身をゆだねたからには、この直面はそれなりに頼みがいのある男なのだろうが、疾風にはどうにもそれを信じられない気がする。  武芸の心得がないことは、疾風の眼には一目瞭然だし、なによりこの男には覇気というか、生命力のようなものがまったく感じられないのだ。 「ご覧なされませ、きれいな月だ。いや、こんな月を見ていると、人間界の修羅がつくづくあさましいものに思われてきますな」  ふいに足をとめるので、どうしたのかと思うと、月をあおいで、しみじみとそんなことを洩らしたりする。  たしかに人間界は修羅かもしれないが、かれの仲間である蟇目《ひきめ》たちは、いま懸命に牢人たちと戦っていて、それを思えば、そんな悠長に月を愛《め》でていられるときではないはずだった。  ——いったい、この男はなにを考えているのだ?  疾風にはこの直面という人物が理解できなかった。  疾風が呆れているのを知ってか知らずか、森の梢からこぼれる月明かりを拾って歩くようにしながら、直面はいい気な独言をつづけている。 「わたしはつくづく人間界に愛想がつきる思いがしています。もうお察しだとは思いますが、わたしは能役者でしてね——命には終わりあり、能には果てあるべからず……いや、わたしもこの言葉どおりに、自分の芸の道に邁進《まいしん》して、人間界からは早々と手を切りたいものだ、とそう考えているのでございますよ」  直面はそんなことを言い、しみじみとため息を洩らした。  しかし……  直面がどんなに人間界から手を切りたいと考えても、人間界のほうではそれをやすやすと許してくれそうになかった。 「来たぞ!」  ふいに森のなかに白刃がひらめいて、数人の男たちがバラバラと参道に飛び出してきたのだ。いずれも牢人者、全員がやはり黒い布で顔を隠している。  男たちは素早くふたりの前後をとりかこむと、 「馬鹿め、逃げおおせるとでも思ったか」  そのうちのひとりがそう嘲笑するように声をはりあげた。 「ここから先には一歩もいかせぬ。ここがうぬらの死に所、そう覚悟せよ」 「…………」  疾風はさして驚かなかった。  あれほど周到に疾風たちをとりかこんだ牢人たちである。待ち伏せの別動隊を用意していることはあらかじめ予想しておくべきだった。  疾風は相手の人数を眼で数えた。  七人——  ひとりで戦うには、いささか多すぎるようであるが、ここはしゃにむに斬りむすんででも、なんとしても逃げのびることを考えなければならない。  もちろん疾風には直面を頼りにしようなどという気持ちはなかった。直面がこうした場合に頼りになる男であるかどうか。残念ながら、まったく頼りにはならない、そう考えざるをえなかった。 「おまえたちは何者だ? 鞍谷刑部の手の者か、それとも十兵衛光秀の手の者か、いずれにせよ、このような無法を働けば、あとでそれを後悔することになろうぞ——」  疾風はそう言い、刀の柄頭に手をかけようとした。  それを脇あいから手を伸ばし、その手首をつかむようにして、直面がやんわりと制止したのである。 「おやめなされ。このような野良犬たち、お斬りになられたところで、刀の汚れになるだけでございましょう」  直面の声はあいかわらずヒソヒソと生気が感じられなかった。 「こうした修羅道に飛び込むのは、わたしのもっとも好まぬところではありますが、なにぶん殯たちにお嬢さまの身の安全を頼まれていますからなあ。ここはひとつ、わたしにおまかせ願って、お嬢さまにはすみやかに退散していただけませぬか」 「おまえにまかせるといっても、相手は七人もいる」 「はい」 「見れば、おまえはこれといって打ち物(武器)も持っていない様子、なにをどうまかせよというのだ」 「ご案じめされるな。わたしも御贄《おにえ》衆、こう見えても、役に立つ術の一つや二つの心得はございます——」  仮面めいて無表情な直面の顔にかすかに小波《さざなみ》のような翳《かげ》が走った。もしかしたら、これでこの男は精いっぱい笑ったつもりなのかもしれない。  そうしているあいだにも、牢人たちは剣尖をつきつけ、ジリジリと円陣を縮めようとしている。あれこれ押し問答をしている余裕はないようであった。 「お嬢さま、それではご無礼をつかまつりまして——」  直面はコックリとうなずいて、牢人たちのほうに歩を進めていった。  まるでこれから舞いでも踊ろうとするかのような、いかにもおとなしやかな、優美な身のこなしだった。  疾風はもちろん、牢人たちもこれにはあっけにとられたようだ。直面はまるで刀など眼に入らないかのように、あまりに無造作に歩を進めているのである。 「ご機嫌よう」  牢人たちのまえに立ちどまると、直面はそうとぼけた挨拶をした。 「う、うぬは何だ? 何のつもりだ。命が惜しゅうはないのか!」  牢人のひとりがそうたまりかねたように声を張りあげるのに、 「もちろん命は惜しゅうございます。なにさまわたしは生まれついての臆病者でござりましてな。子供のころより、死ぬのが恐ろしゅうてなりませなんだ。死ぬというのはどんな心持ちのするものであろうか? いつもいつもそのようなことばかり考えているうちに、いつしか�死�が妙に自分に近しいもののように思われるようになりました。とるにたらぬ猿楽師に落ちぶれたのも、なんとか芸の力で、�死�を自分のものにできぬものか、そう思いつめたあげくでございます——」  直面の声はあいかわらずボソボソと低く、何の変化も感じられなかった。いや、それを言うなら、その顔もやはりいつもながらに無表情のままだった。  が、それでいながら直面の顔がたしかに変わった。  直面の顔の筋肉のそよぎ、その皮膚のざわめき、そうしたものが翳のように波打つと、その表情がスッと強張《こわば》っていったのである。  脇から見ている疾風には、なにやら直面の顔の感じが変わったのは分かるものの、それがどんな意味あいを持つのか、そのことはかいもく見当もつかなかった。  しかし……  直面の顔が変化したことに、牢人たちは少なからず衝撃を受けたようであった。その顔になにを見たのか、ううっ、そんな呻き声をあげると、牢人たちはその場を後ずさっていった。  牢人たちの顔にははっきりと恐怖の色が、それも狂おしいばかりの恐怖の色が滲《にじ》み出しているようだった。 「皆様方もたまにはご自分がお死にになられるときのことをお考えになったほうがよろしいのではないですかな。わたくしめの顔をとくとご覧あれ。ご自分がお死にになられるときには、どんな死に顔をさらすことになるのか? それはもしかしたらこのような顔ではありますまいか」  直面の声がなにやらヒソヒソと妖怪めいたものに変わったようだ。  直面はそのまま歩を進めていく。牢人たちはなにか忌《い》まわしいものから逃れようとするかのように、直面から退いていった。  信じられないことではあるが、そして横あいから直面の顔を見ている疾風には、そんなふうにはまったく感じられないことでもあるが、どうやら牢人たちは直面の顔に自分の死に顔を重ねあわせて見ているようであった。  死んだ人間の顔は、男女、あるいは老若のべつなく、どことなく似かよったものになるようであった。鼻梁が細くなり、頬が削げ、その唇が紙のように白くなる。  たしかにその意味では、直面の仮面のように無表情な顔は、もとから死人を連想させる顔つきといえないこともなかった。  だが、それを対峙するすべての人間に、自分の死に顔のように感じさせるのは、どんな幻術《めくらまし》によるものなのか。直面は猿楽師のようであるが、これをしも芸の力と呼ぶべきなのであろうか?  しかも驚くべきことに、直面と敵対していない疾風の眼には、それは自分の死に顔のようにはまったく感じられないのである。  蟇目が体から死臭をただよわせ、敵を撃退したように、直面は死に顔を見せつけることで、相手の気力を萎えさせ、これを撃退するようであった。  御贄衆はどうやら疾風の味方のようではあるが、味方ながらじつに気味の悪い連中だ、疾風はそう思わざるを得なかった。 「お嬢さま、この者たちはわたしがこうして食いとめておきまする。わたしのことはどうかご心配なさらずに、いまは心おきなくこの場を退散なされますように——」  直面がそう言い、疾風はその言葉にしたがって走りはじめた。  もちろん直面の身を心配するどころではない。牢人たちから逃げるより、どちらかというと直面の不気味さから逃げ出したいという気持ちのほうが強かった。  が、またしても疾風は逃げのびることができなかった。新たな敵が、それも最悪の敵ともいうべき相手が、その行く手に立ちふさがったのである。  寺院は山中にある。  ようやく参道を抜け、石段を駆けおりようとしたそのとき——  石段の横手に迫る森のなかからふいにひとりの男が足を踏み出してきたのだ。  夜闇のなかにも、その人影はボウと白く浮かびあがっているのが分かった。山伏《やまぶし》の扮装をしているのだ。その男はすでに刀を抜き払っていて、石段をゆっくり登ってきた。 「閻魔冥官《えんまめいかん》!」  疾風は反射的に飛びすさり、思わずそう叫んでいる。 「左様、閻魔冥官でござるよ——」  冥官はそう人を小馬鹿にしたような笑い声をあげ、 「このまえは要《い》らざる邪魔だてが入り、思うようにことを運ぶことができなんだ。いや、心残りでならなかったが、どうやらそれもここで片をつけることができるようだ。おれはまったくの果報者であるわい」 「…………」  疾風は刀を抜き払い、それを八双にかまえた。  冥官とのあいだにもう言葉は無用だ。この男は疾風を斬るつもりでいて、その敏捷な身のこなしを思えば、これから逃げ出すのは不可能なことだった。  疾風は力のかぎり、これを迎撃することを考えるほかなかった。  しかし…… 「このまえは詫び事を邪魔され、小癪《こしやく》な小娘だと、それが癇《かん》にさわっただけであったが、今回はすこし事情が変わってきた。おれのほうにもなんとしても、おまえを斬り捨てねばならぬ事情が出てきたのだ。小娘、どうやら延びのびになっている勝敗を決するときがきたようだ——」  そこまで言うと、冥官はニヤリと笑い、その唇を赤い舌で舐めまわした。 「なに、じつを言うと、勝敗を決するなどと大仰にことをかまえる必要もないほどでな。どんなに器用に刀をあやつっても、しょせんは小娘のたかの知れた芸、すぐにも引導を渡してくれようよ」 「来い!」  疾風はそう叫んだが、その胸は暗い絶望感にふさがれていた。  冥官に言われるまでもなく、自分がこの男にかなうはずがないことは、だれよりもよく疾風が承知しているのだった。  第八章 贄塔九郎《にえとうくろう》    1 「来い——」  今度はつぶやくようにそういうと、疾風《はやて》は剣を抜いた。  閻魔冥官《えんまめいかん》は、かの塚原卜伝に一の太刀の秘奥をさずかり、新当流の奥義をきわめたと称している。それがほんとうなら、とうてい疾風などが太刀打ちできる相手ではないかもしれない。  しかし……  そうして剣を抜くと、にわかに自分の身が引き締まり、しんと気持ちが落ち着いてくるのを感じた。  あいかわらず冥官にたいする無力感は強かったが、かなわぬまでも一太刀なりと浴びせたい、そう覚悟がさだまったようである。  疾風に深甚流を伝授した草深甚四郎は生前に塚原卜伝と立ち合い、むなしく敗れ去っている。そのことに疾風の兵法のうでをあわせ考えれば、冥官に一太刀なりとあびせかけることができれば、それで本望というべきかもしれない。  冥官の眼に凄惨《せいさん》な光りが浮かんだ。ネコがネズミをいたぶるときの眼に似ていた。 「ほう、おれと尋常に仕合うつもりか。けなげなり、そう誉めてもやりたいが、あまりに身のほど知らずが過ぎて、いっそ小憎らしい思いがするわい————」  そして……  やおら体をおどらせると、いきなり一撃を放ってきたのだ。凄まじい剣風が唸りをあげて、思いがけず間近まで、その切っ先が伸びてきた。  疾風は危うく飛びすさったが、それでも肩先を襲ってきた剣をかわしきることはできなかった。かろうじて鍔元《つばもと》で受けとめ、ガッと火花が散るのが感じられた。  冥官が笑い声をあげた。  鍔競り合いになれば、しょせん非力な疾風が、冥官にかなうはずがなかった。冥官は押しに押してきて、疾風はそのままズルズルと無力に後退しなければならなかった。 「うぬ」  疾風は身をひねった。からみあっていた刀身が滑り、鍔が音をたてて外れる。冥官と体を入れ換えざま、相手の胴に一撃を送り込んだが、これは難なくかわされた。  冥官はすかさず反撃に転じた。大きく踏み込んできて、上段から斬りおろしてくる。今度もまたそれを鍔で受けたが、その重い一撃を押し退けることはできなかった。  ピィーン、と鋼が鳴って、手元がしびれたようになり、疾風はそのまま地面にたたきつけられている。すかさず身を反転させたのはさすがだったが、そのときには地面を擦《す》るようにして、冥官の剣が襲いかかってきた。毒蛇が跳躍するのに似ていた。肩にするどい痛みが走るのを感じた。  これまでの疾風なら、その痛みに怯《ひる》んでいたろう。受け身になり、そのためにさらに劣勢に追い込まれていたにちがいない。  が、いまの疾風には捨身の覚悟があり、傷を負っても、それを撥《は》ねのけて逆襲に転じるだけの気迫があった。  疾風は地面を転がった。そして起きあがりざま、低い姿勢で、すばやく剣を送り、冥官の足を払った。  冥官はあまりに疾風をみくびり過ぎていたようだ。そこに若干の油断があったことは否めない。 「しゃあっ」  冥官はすかさず飛び退いたが、疾風の一撃をかわしきることはできなかった。  袴の裾が切れ、あらわになったすねからプツプツと血の玉が噴き出してきた。  怒り、それとも屈辱感からか、冥官の顔が醜く歪んだ。  すねの傷はとるにたらない浅手にすぎないが、それをいうなら、疾風の肩の傷もたいしたものではない。両者の傷を見るかぎり、これまでの勝負はまったくの互角といえないこともなかった。 「おれともあろう者が油断が過ぎた。いささか遊びがすぎたようだ——」  その屈辱感を、むりやり苦笑にまぎらすようにして、冥官は頬に笑いを刻んだ。凄絶な笑いだった。 「小娘、もう容赦はせぬ。せめてもの冥土の土産に、おれのすねに糸ほどの傷をつけたことを、あの世にいる師匠の草深甚四郎に告げるがよい。深甚流には過ぎた者だと誉めてくれようわい——」 「…………」  疾風はすでに立ちあがり、青眼にかまえている。  自分が思ったよりも落ち着いているのを感じたし、それほど息も苦しくなってはいなかった。そのうちに痛みだすかもしれないが、いまのところは肩の傷もそんなに痛みを感じない。  ——これなら何とかやりあえるかもしれない。  疾風はそう考え、にわかに自分のなかに力が湧いてくるのを覚えた。  もちろん冥官に勝てるなどとは自惚れていない。ふたりのうでの差は歴然としていて、どんなに疾風が必死になろうと、その差はいかんともしがたい。剣の試合は冷徹な事実だけがものをいい、そこに奇跡が入りこんでくる余地はまったくなかった。  ——わたしは負ける。  疾風はそう思う。悔しいが、そのことは認めざるをえない。  だが、おなじ負けるにしても、一方的に斬りまくられる無様な醜態だけはさらさずに済みそうであった。いまの疾風にはそのことがなによりの慰めのようにも感じられるのであったが。  しかし……  疾風はいささか冥官を見くびりすぎたようである。  冥官がスッと八双にかまえた。  その瞬間、急に冥官の体が大きく膨れあがったように思われた。柄を肩に引き寄せ、剣先をやや背後に寝かせるようにし、どこからなりと剣を放つことができる自然体をとっている。それでいながら、疾風が撃ちこめる隙などはまったく感じさせないのだ。  ——新当流一の太刀。  疾風は心中うめき声をあげている。  天、地、人の三段の見切りをきわめ、ただの一撃で相手を撃ち倒す。師の草深甚四郎が卜伝に敗れたのも、一の太刀を逃れることができなかったからである。塚原卜伝が世に剣聖とうたわれているのも、この奥義があればこそのことだった。 「行くぞ」  冥官は八双にかまえたまま、ジリジリと間合いをつめてくる。  剣尖がいつ自分の身に飛んでくるか、その殺気をひしひしと感じながら、疾風はそれをふせぐだけの工夫がつかないでいる。冥官の剣を避けるためには、体勢を入れ換えなければならないのだが、どうにも足を前に出すことができない。  八双にかまえた剣に威圧され、まるで自分の体が自分のものではないかのように感じられる。気押されるままになり、まったくそれに抗うことができなかった。  一の太刀はただ一撃……見切りがきわめられたとき、それは容赦なく、疾風のうえに落ちかかってくるはずである。  疾風はそれをふせぐことができるか?  ——できるはずがない。  疾風の胸は絶望感に暗くふさがれた。立木でも斬るように、疾風は難なく斬りふせられるにちがいない。  頭のなかがしびれたようになり、その空白の意識のなかに、ただ冥官の剣だけが非情に迫ってくるのが感じられた。  月明かりはほのかだが、そのとぼしい明かりを集めるようにして、冥官の剣は異様にぎらついた光を放っている。その銀光に射すくめられたようになり、疾風はほとんど身じろぎすることさえできない。  いや、身じろぎすることさえできないはずだったのだが……  妙なことが起こった。  それは幻覚だったのかもしれない。あるいは剣の光がめまいを呼んだのか?  一瞬、剣のぎらつきが陽炎《かげろう》のように揺らめいて、それが幻をいざなった。春の陽の輝きのなか、キラリ、と白い腹を見せて、水面をかすめるようにして飛んでいく燕の幻を。  ——なんとか飛んでいる燕を斬ることができぬものか。飛んでいる燕を斬ることができるほどの太刀運びの速さを会得すれば、兵法者たる者、これにまさる刀術はないのではないか、そう考えましてね……  秋月小次郎の屈託のない声が頭のなかに聞こえてきた。  燕を斬る!  その瞬間、疾風は自分がどう動いたのか、ほとんどそれを意識していなかった。水面をかすめ飛んでいく燕の姿が、冥官の剣の動きとあざやかに重なりあい、それが疾風の頭のなかで寸分の狂いもなしに合致した。なにものかにとり憑かれたように体が自然に動いている。  冥官の喉から気合がほとばしった。大きく踏みこんできて、そのまま跳躍し、頭上から全身の重みをかたむけた凄まじい一撃を振りおろしてきた。  疾風は逃げなかった。逃げようとすれば、ついにはそれを避けきれず、無残に頭を砕かれていたにちがいない。  疾風は逃げずに、逆に走り抜けて、相手の胴に一撃を送り込んでいる。疾風の眼には冥官の姿はなく、ただきらっ、きらっと飛翔する幻の燕だけがあった。  またしても肩に撃ちこまれた。今度は浅手とはいえないようだ。肩にとてつもない痛みが走るのを感じたが、それと同時に疾風のほうも相手の胴を斬り裂く確かな手応えをおぼえた。  一瞬、ふたりのあいだに血がしぶいて、それが月を赤く染めた。 「ぐわあっ」  そうだらしなく悲鳴をあげたのは冥官のほうである。  たがいに深手を負ったが、相打ちだったために、いま一歩踏み込みが足りなくて、いずれも致命傷とはなりえなかったようだ。すれちがい、苦痛に耐えきれずに、ふたりながら頭から地面に突っ込んでいった。  もちろん、疾風はすぐに起きあがろうとしたのだ。しかし、さっきの一撃に渾身の気力をふりしぼり、しかも傷の痛みがあまりに激しかったために、とっさには起きあがることができなかった。 「こ、小娘、ゆるさぬぞ——」  冥官のうめくような声が聞こえてきた。 「よくもこのおれを、おれほどの男に傷を負わせてくれたな。うぬにこのことを後悔させてやる。なぶり殺しにしてくれよう」  いつもは傲岸そのものの冥官が、いまは見るもあさましいほどに取り乱している。なまじ自分のうでに絶対の自信を持っていただけに、それを打ち砕かれたときの動転ぶりは、ほとんど滑稽なほどだった。  人を傷つけるのをなんとも思わないこの男が、自分の苦痛にだけはひどく敏感なようだった。  剣を杖にして、ようやく立ちあがったのだが、その顔がうろたえきって、土気色になっている。脂汗を流し、その噛みしめた歯のあいだから、あぶくのように唾液をこぼしていた。  疾風は急速に意識がうすれていくのを感じている。  傷が深く、出血のために、気力が萎えてしまっているようだ。立ちあがらなければ、そう気持ちはあせるのだが、どうにも足腰に力が入らない。  かすれた視野のなかに、冥官が自分に近づいてくるのが浮かびあがっていた。  剣を杖がわりにし、ヨロヨロとよろめきながらも、ようやく足を運んでいるらしい。傷口から血が噴き出し、それが足をつたい、地に点々と血のあとを残している惨憺たるありさまだった。  よほど疾風に斬られたのを無念に感じているのにちがいない。  悪鬼のような形相になっている。バリバリと歯を噛み鳴らし、その眼は赤く血走って、いまにも火を噴きそうだった。 「なぶり殺しにしてくれる。なぶり殺しにしてくれようぞ——」  そう呪文のように口のなかでくりかえしている。  なんとも浅ましく、惨めきわまりない姿だった。  疾風は笑い出したくなった。  疾風はここで死ぬかもしれないが、冥官ほどの剣の遣い手にこれほどの屈辱を味わわせることができたのだ。本望というべきだったかもしれない。 「死ねえ、小娘——」  疾風のすぐまえまで来ると、冥官はそう怪鳥のような声をはりあげ、その剣を上段にふりかぶった。  すでに疾風には冥官に抵抗するだけの力は残されていない。このうえは死にぎわを潔くして、見苦しい醜態をさらさないようにしたい、そう願うばかりである。  疾風は眼を閉じた。眼を閉じて、そのときを、冷たいはがねが自分の体に食い込んでくるその瞬間を待った。しかし……  いっこうに剣が振りおろされる気配はなかった。いや、それどころか、疾風の思ってもいなかったことが起こった。 「わあっ!」  冥官のそう悲鳴をあげる声が聞こえてきたのである。  これは意外というほかはない。閻魔冥官ともあろう者が、いったい何におどろいて、そんなだらしない悲鳴をあげなければならなかったのか?  疾風は眼を開けて、——  そして彼女もまた声をあげている。声をあげざるをえなかった。  月の光をあび、闇のなかに銀色の輝線を浮かびあがらせて、一頭のたくましい黒馬が立ちはだかっている。  その馬上に、ひとりの武士らしい男がまたがっている。  これもまた馬におとらず、たくましい男だった。六尺余の背丈、その胸は巖のようにぶ厚く、腕もまた節くれだった松の幹ほどの太さがあった。  それでいて大男にありがちな鈍重さはまったく感じさせない。筋肉がたくましいのに、ふしぎにしなやかな体つきだった。  黒い小袖に、黒いたっつけ袴、それにこれも色のあせた袖なし羽織を着ている。  とぼしい月明かりのなかで、その顔だちははっきりわからない。ただ、それほどの歳ではなく、まだ三十になるかならないかの年齢に思われた。  その男は馬から下りようともせず、無言のまま、疾風たちを見つめている。なにか異常に強靱《きようじん》なものを感じさせる視線で、疾風は自分がその眼に射すくめられたように感じていた。  その視線にさらされ、冥官もやはり身動きができなくなっているらしい。この傲岸そのもので、人を人とも思わない男が、いまはぺったりと地面に尻餅をついて、ただ呆然としているのである。  カッ、カッ、と蹄を鳴らしながら、黒馬が冥官のほうに近づいていった。  冥官はよほどその男が恐ろしくてならないらしい。ヒィッ、と悲鳴をあげると、尻でいざるようにし、後ずさった。そして—— 「や、闇の太守……贄塔九郎《にえとうくろう》……」  そう震える声をあげたのである。  贄塔九郎? 疾風はあらためて男の姿を見つめた。その名前には聞きおぼえがある。たしか御贄衆の棟梁の名を贄塔九郎といったのではなかったか? 「行け、いまはおまえなどにかまってはいられぬ——」  男はそう低い声で冥官に命じた。  そう、まさしく命じたとしかいいようがない。  冥官ほどの男が唯々諾々《いいだくだく》として、その言葉にしたがったのだ。贄塔九郎に抵抗しようなどという考えは頭からまったく持っていないらしい。ほとんど地を這うようにして闇のなかに逃げていったのである。その卑屈な姿には危うく命拾いをしたというよろこびの念がありありと滲み出しているようだった。  いまの疾風の胸にはただ冥官にたいする軽蔑の念だけがあった。相打ちになれれば本望だ、あんな男を相手にし、自分がそのようなことを考えていたのが、いまとなっては悔やまれる思いがする。  ——あんな男と相打ちになって死んでたまるものか。  そうした思いがむらむらと胸に湧きおこってくるのを覚えた。疾風は自分のことをもう少し価値のある人間とそう考えたかった。  なんとしても生きのびなければならない、その思いが、疾風のなかにわずかに残っていた気力を、かろうじて奮い起こしたようだった。  剣を杖にして、ふらつく足を踏みしめるようにし、ようやく立ちあがった。ゆらゆらと体を揺らしながら、馬上の贄塔九郎に視線を凝らした。 「おまえは何者なのだ? おまえたち御贄衆はこの一乗谷に入りこんで、何をしようと考えているのだ?」  疾風はそう尋ねた。いや、そう尋ねたつもりだったが、実際にはそれは声にならなかったかもしれない。  次の瞬間、疾風の体は地面に沈みこんでいき、その意識も暗い淵のなかにのめりこんでいったからである。    2  朝倉家も戦国の世にある以上、他領の情勢に無関心ではいられない。尾張の織田信長、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、いずれも猛将、知将であり、その動向にはつねに注意を払わなければならなかった。  とりわけ領地を接する加賀の国は、本願寺門徒に占拠されて、いわゆる加賀一向一揆と呼ばれ、朝倉家との紛争が絶えることがなかった。  そのために朝倉義景は乱波《らつぱ》、透波《すつぱ》、細作《さいさく》などと呼ばれる間者を加賀の国に潜入させ、つねにその情勢を探ることに余念がなかった。  その男もそうした間者のひとりだった。  名前は六蔵、——旅の小《こ》商人《あきんど》をよそおい、三月ものあいだ、加賀の国の内情を探索し、ようやく帰ってきたばかりである。  まだ若いが、身が軽く、小才もきいて、なまじのことでは失策をおかすような男ではなかった。  それがいまは腑抜けたようになって、百舌《もず》という女のいいなりになっている。  百舌が唇から吐いて、六蔵にあびせかけたのは唾液だったのだろうか? たんなる唾液と考えるには、あまりに量が多すぎたようであるし、なによりその媚薬めいた成分は奇妙というほかはない。  朝倉の間者のなかでもとりわけ腕ききで知られているこの男が、いまはまるで判断力をうしない、ただもう百舌が欲しい、その一念だけで動いているのである。自分がどこでなにをしているのか、ほとんどその自覚さえなかった。まるでさかりのついた雄犬のように、女につきまとって、ハア、ハアとあさましい息を吐いているのだ。  最初のうちは、百舌が唇からつむぎだした粘液に、蜘蛛の巣のように体をからめ捕られて、ろくに身動きがきかず、ただ女に操られるままになっているほかはなかった。  しかし、いまはもうその粘液はきれいに消え失せているのだ。それなのに六蔵はあいかわらず自分というものを失い、まるで魂を落としでもしたように、ただトボトボと女のあとにつき従っている。  奇怪というしかなかった。  そして、ここは諏訪館、——朝倉義景が愛妾の小少将を住まわせている館である。  その塀の外、雑木林にさえぎられ、月の光もとどかない暗がりのなかに、かれら三人の姿はあった。  六蔵は地面にぼんやりと座っている。そこから少し離れて、百舌、それに鵺《ぬえ》のふたりがしきりに何事かしているようであった。  あらかじめ説明したように、六蔵は間者である。  間者には、六蔵のように短期間、他領に潜入する者もいれば、身分をいつわって、その地に二年も三年も潜伏しなければならない、いわゆる草と呼ばれる者もいる。  六蔵は仲間の草から密書を預かってきている。  それは数年間の血のにじむような探索の成果を書きしるしたものであり、間者にとってはなにより大切なものであるはずだ。もしだれかそれを奪おうとする者がいれば、六蔵は命を賭《と》して、それを守ろうとしただろう。そう、いつもの正常な六蔵であれば、必ずそうしたにちがいない。  が、六蔵は正常ではなかったし、なによりいまのかれには、百舌をおいて、大切なものなど何もなかった。密書のことなど完全に忘れてしまっていた。  密書は奪われ、どうやらもうひとりの鵺という女が、それを見ながら、偽の密書を書いているようだった。  暗闇のなかにクスクスと女の笑い声が聞こえ、 「ようできた。これならだれが見ても偽の密書とは思うまい」  そう女の声がつづいた。  ヒソヒソと低くかすれたような声で、おそらくものの二、三メートルも離れれば、その声はだれの耳にも届かないにちがいない。  暗闇のなかに潜んでいる市女笠の女ふたり、もしだれかがこの情景を見れば、このふたりを夜に棲むもののけの一種だと思ったかもしれない。  そして……  闇のなかに新たな市女笠がボウと浮かびあがって、またもののけがひとり増えたようである。 「姉上、首尾はいかがでございますか?」  そう澄んだ声が聞こえてきた。  鷽女《うそめ》である。  ふたりの女を姉と呼ぶからには、この三人は姉妹ででもあるのか? おそらくは鵺を長女にして、百舌に、鷽女の三姉妹、この世にこれほど奇怪な姉妹もまたとあるまい、そう思われた。 「首尾は上々じゃ。この男を見るがよい。朝倉きっての乱波も、しょせんはただの男にすぎぬ。われらにかかれば、これ、このようにたわいもないものよ——」  鵺がそう答え、それに応じて、また百舌がクスクスと笑った。 「笑ってばかりもいられません」  と鷽女がそういった。 「どうやら御贄《おにえ》衆の動きがめだってきたようでございます。棟梁の贄塔九郎が乗り込んでくる、という噂もございます。われらも早急にことを運ばねばなりますまい」 「たしかに御贄衆に乗り込んでこられたのではなにかと面倒。十兵衛光秀めがさぞかしやきもきすることでございましょう。姉上、鷽女のいうとおり、われらもことを急がねばなりませぬ——」  百舌もまた妹に言葉を添えるようにそういい、 「光秀など何ほどのこともないが、恐ろしいのは是界《ぜかい》さまじゃ。是界さまの機嫌を損じては、われらの首が飛んでしまう。御贄衆が現れるのはやむをえぬが、そのまえにやるべきことはやっておかねばなるまい」  鵺がうなずき、立ちあがった。  ゆっくりと立ちあがったようにしか見えなかったのに、フワリと白い衣がひるがえり、次の瞬間、鵺の姿は塀を飛び越え、闇のなかに消えていった。  鷽女に百舌、ふたりの女は顔を見合わせ、たがいに微笑を浮かべた。  それでもなお六蔵はぼんやりとうずくまったままである。自分が見ているものが何であるか、それさえほんとうに理解してはいないのかもしれない。    3  ここは諏訪館の庭園である。  京都銀閣寺を模したという壮大な庭園が、いまは月明かりのなかに、ボウと銀色の霞がかかったように浮かびあがっている。  山肌から湧く清水をそのまま落としている滝の響きが、深夜の庭園にしんしんと響きわたっている。  そこに小少将がいる。  深夜、というより、もう明け方に近い時刻といったほうがいい。  こんな時刻に、どうして若い女がひとり、庭園などにたたずんでいるのか?  もしかしたらそれは彼女自身にもよく分からないことだったかもしれない。自分でも説明のつかない、なにか得体の知れない衝動のようなものにつき動かされ、寝所を抜け出さずにはいられなかったのである。  今夜は、朝倉義景が諏訪館に足を運んでいる。  ついさっきまで夜具をともにしていたのだが、体のなかに湧きおこってくる衝動に耐えかね、義景が寝入ったのを見はからって、寝所を抜け出してきたのである。  あってはならないことだった。  ——わたしはどうしてこんなことをしているのだろう?  小少将はわれながら自分の不可解さに呆然とする思いだった。  だれかがしきりに自分を呼んでいる。そんな気がしてならなかった。  いまもなお悪夢のなかの出来事だったような気がするのだが、小少将はこの庭園で明智光秀と関係を持ったことがある。  あのときも自分がだれかから呼ばれているような気がして、なにか切ないような念に駆られるまま、思いがけなく過ちを犯してしまった。  自分でもどうしてあんなことをしてしまったのか分からない。小少将は罪の深さにおののいたが、その後、ふしぎに光秀からは何もいってこなかった。もっとも、それで小少将が安堵できるわけがなく、むしろ光秀がなにをたくらんでいるのか、そのことがより不安に感じられるようになったのだが。  だれかが自分を呼んでいる……いまのこの思いはあのときによく似ている。罪悪感におびえながらも、その呼び声を無視しきれずにいるのもあのときとそっくりだった。  ——こんなことをしてはいけない。  理性では懸命にそれにあらがうのだが、体の底に湧きあがってくる執拗な疼きのようなものには、どうしても抵抗することができなかった。  光秀との過ちを思い出すと、自分が性懲りもなく、またしてもこうして庭園にさまよい出たことが、なにかとてつもなく愚かしく、大胆なことであるような気がする。自分は発狂してしまったのではないか、そんな危惧の念さえ覚えるのである。  しかし、この肉のうずき、締めつけられるような胸の苦しみ、切ないあえぎにどうして耐えることができるものか? 小少将は肩で息をするようにして、ヨロヨロと歩きはじめた。  ふいに眼のまえに人影が浮かびあがった。  ——十兵衛光秀。  小少将はとっさにそう思ったが、それは光秀ではなかった。いや、それは男でさえなかったのだ。  どこから侵入してきたのか、市女笠をかぶった女がひとり、小少将のまえにたたずんでいるのである。  細くしなやかな体つきだが、妙に妖艶なものを感じさせる女だった。まだ若く、身分も卑しい女にすぎないはずなのに、ふしぎに小少将は自分がなにか圧倒させられるようなのを感じていた。  闇のなかでもその猫のような眼がりんと妖しい光を放っているのが分かった。その眼の光にはとうてい抗えない、小少将はそんな無力感におちいっている。 「来や、来や……」  囁くような声がそう聞こえてくる。そのぬれぬれと赤い唇が開いて、甘く艶めかしい息をホッと吐き出した。  ——これは十兵衛だ。  どうしてそんなことを考えたのか、小少将の頭のなかをそんな不条理な思いがよぎっていった。  不条理な思い……たしかにそうにはちがいないが、じつはその女と光秀とを同一視した小少将の直観には、錯覚とばかりはいえないものがあったのかもしれないのだ。  小少将は自分で自分を制することができないでいる。どうすることもできなかった。ヨロヨロと泳ぐように、足をまえに踏み出していって、その女の腕のなかに自分の身を投じていった。  そして唇を重ねあわせる。  それはトロトロと自分の身が溶けていくような、甘く、かぐわしい口づけで、唇をはなしたとき、そのあまりの甘美さに、小少将は思わずうめき声をあげていた。 「わたしは鵺《ぬえ》、それが女であれば、わたしはどんな女にもなれる。だから、わたしは鵺——」  そう女の含み笑いが聞こえてきたが、小少将にはその言葉がなにを意味しているのか、それが理解できるはずがなかった。  いや、ろくに女の言葉を聞いてさえおらず、ただうめき声をあげながら、自分で着物の裾を割るようにして、その足をからみつかせていったのである。  部屋の外から声がかかり、義景はすぐに眼を覚ました。  ——小少将がいないな。  とっさにそう考えたが、小用にでも立ったのか、そう思い、さしてそのことを不審には感じなかった。  人からはひ弱な武将だと思われているようだが、そこは戦国の世に生きる大名、夜中に外から声をかけられたぐらいのことで、うろたえようはずもなかった。  隣室にひかえているはずの宿直《とのい》の者を呼ぼうとさえしなかったのである。 「六蔵めでございます。ただいま加賀の国から戻って参じました。ぜひとも火急にお渡ししなければならぬ書状があり、無礼は承知のうえで、こうして罷り越してございます」  部屋の外から襖ごしにそう声が聞こえてくる。  廊下で平蜘蛛のように平伏している男の姿が眼に見えるようだった。  ——六蔵か……  その名には聞きおぼえがあった。  義景にしてみれば、加賀の国に派遣した間者など、とるにたらない身分の者である。その名を憶えているということは、後世の評価とは異なり、けっしてこの武将が凡庸な人物ではなかったことを示している。  細作がじかに領主に接する、というのはきわめてまれなことではあるが、これまでにも例のないことではない。それだけ諜報の仕事が重要視されていたのであるし、入手した情報の性質によっては、人を介して、それを領主に伝えるその時間が勿体ない、そう判断されることも少なくなかった。 「その手紙を置いていけ」  義景がそういい、襖がわずかに開いて、その隙間から、一通の書状が差し出された。  襖が閉められ、あとはもう何も聞こえてこない。人が立ち去った気配さえ感じさせなかったのは、さすがに朝倉家きっての腕ききの間者というべきだった。  義景は書状を手に取り、それを読みはじめた。  その書状にはじつに驚嘆すべきことが記されてあった。それを読み進みながら、義景はしだいに自分の顔色が変わっていくのを感じていた。 「馬鹿な……そんな馬鹿な……」  義景はうめき声をあげた。  自分がまだ夢のつづきのなかにいるような気がした。これが夢であれば一刻も早く覚めて欲しい、切実にそう願いもした。  その書状には、飯田仁右衛門が加賀一向一揆とひそかに連携し、越前に一向一揆を蜂起させようと謀《はか》っている、そう記されていたのである。  あっていいことではなかった。  義景は仁右衛門を大臣《おとな》として、家中のだれよりも信頼している。朝倉家が危難におちいったとき、ほかのだれよりもまず頼りにすべき人物だ、とそう考えているのである。  その仁右衛門がこともあろうに加賀の本願寺門徒と密謀をはかって、越前の国に一揆を起こそうとたくらんでいる、などとそんなことがあろうはずがなかった。義景にはとうてい信じられないことである。  が、書状の記述は詳細をきわめていて、仁右衛門がいつ一向一揆と内通するようになったか、その経過にいたるまでがこと細かに記されているのだった。  ——飯田仁右衛門は天文二十四年(一五五五)の朝倉宋滴による加賀一向一揆討伐に出陣しているが、そのときに敵の本願寺門徒に共感するものをおぼえ、それからひそかに本願寺の顕如《けんによ》と手紙のやりとりをするようになった……  にわかには信じがたいことではあるが、決してありえないことではなかった。一向宗にはどんな人間も引きつけずにはおかない、なにか魔力のようなものがあるらしく、一向一揆をいっこうに根絶やしにできないのも、そのためと考えられるからである。  これまで加賀の国に潜入させている草からの報告は、つねに正確そのものであり、義景は自分の間者たちの諜報能力には万全の信頼を置いている。それもあって、書状に記されていることを嘘だと、いちがいにそう決めつけることもできかねて、義景はその判断のむずかしさに煩悶せざるを得なかった。  かなり長いあいだ、義景は寝具のうえにあぐらをかき、手紙に見入ったまま、考えこんでいたらしい。  義景はふと人の気配を感じ、その顔をあげた。そして、奥に通じる襖のかげに、ひっそりと小少将がうずくまっているのに気がついた。  義景は眉をひそめた。  小少将はまだ少女といっていいような年齢で、義景はその幼さを愛でてもいるのだが、いまはどうしたことか、いつもの彼女とはまるで別人のように、なにか沈痛な青ざめた表情をしているのだ。 「どうしたのだ? なぜ、そんなところにいるのだ?」  そう尋ねると、小少将は顔をあげ、ひたとその視線を義景に据えた。ふしぎに澄んで、青く、底光りするような視線だった。 「上様に申しあげねばならないことがございます。どうしても申しあげねばならないことがございます——」  小少将は低い声でそういい、どうしてか義景はその声の調子に、自分の胸をなにかヒヤリと冷たいものがよぎっていくようなのを感じていた。    4  ……夜明けである。  魚住備後守景固、それに山崎長門守吉家のふたりの武将が飯田仁右衛門討伐の大将に任ぜられている。率いる兵数は二千余騎、それだけの人数の兵馬が、濃くたちこめる朝霧のなかを、一乗城山に向かって、ひたひたと押し寄せていきつつあった。  兵はもちろん、ふたりの大将も、これから自分たちが飯田仁右衛門の討伐に向かわなければならないのだ、ということをにわかには信じかねているようだ。  魚住備後守も、山崎長門守も、主君からそれを命ぜられたときには、自分の耳を疑いたくなるような思いがしたはずである。  仁右衛門は朝倉家のいわば重鎮であり、かけがえのない人物であるはずだった。それをいきなり討伐せよ、と命ぜられたのでは、ふたりの武将が面食らってしまうのも当然のことだったかもしれない。  ——仁右衛門は加賀の一向一揆に通じ、本願寺の顕如とひそかに親書をかわしあっているのだ……  主君の義景はそういったが、ふたりの武将はそのことには半信半疑にならざるをえなかった。  いや、あの飯田氏にかぎって、そのようなことがあろうはずがない、主君に対して、そんな反発めいた気持ちさえ動いた。  しかし、この戦国の世には、主君の命は絶対であり、朝倉家を出奔する決意でもかためないかぎり、その下知には全面的にしたがうほかはなかった。  兵馬二千余……これだけの大軍であるからには、当然のことながら鉄砲隊もつきしたがっている。  その鉄砲隊を指揮しているのが明智十兵衛光秀だった。  この大軍のなかで、ただひとり十兵衛光秀だけが、その唇ににんまりと嬉しそうな笑いを刻みつけていた。  ——朝だ。  目覚めるまえに、すでにそのことに気がついていた。  瞼の裏に陽が射して、うすく血の色が透けて浮かびあがっていた。そのぼんやりと赤い血の色がなにか妙に懐かしいものであるかのように感じられる。  なにか潮騒のように押し寄せてくる響きがあった。それが何であるか分からず、あれは何だろう? そう頭のなかで自問しているうちに、しだいに意識のほうもはっきりしてくるようであった。  眼を覚ましたときには、それが人馬のさんざめきであることに気がついていた。  一向一揆の侵攻を警戒し、加賀との国境にはつねに軍を待機させているのだが、その軍隊が移動でもしているのかもしれない、疾風はぼんやりとそんなことを考えている。  朝倉家と敵対関係にあるものといえば、いまのところ本願寺門徒ぐらいしかないはずで、その程度のことしか頭に浮かんでこなかったのだった。  洞窟のなかである。それほど深い洞窟ではない。  入口ちかくに木の枝や葉などを敷きつめ、みどりのしとねがしつらえられているが、疾風はそのうえに寝かされていたようである。  ——わたしはどうしたのだろう?  疾風は身を横たえたまま、ぼんやりと洞窟の天井を見つめている。入口から射し込んでいる朝陽に、洞壁の岩のひだがくっきりと浮かびあがっている。  また人馬のざわめきが聞こえてきた。  それほど近い距離からではないが、かなりおびただしい数の兵馬が動いているのは間違いないらしく、鉄具の触れあう響きさえ聞こえてくるようであった。  その音にはっきり眼を覚まし、疾風は上半身を起こした。 「うっ」  肩にするどい痛みが走り、疾風は思わず顔をしかめた。  そのときになってようやく思い出した。疾風は閻魔冥官と戦い、からくも相打ちに持ち込んだのだが、そのまま意識を失ってしまったのである。  肩の傷には金瘡の薬が塗られ、布が巻かれてあった。  ためしに腕を動かしてみたが、どうやら肩の腱は切れていないらしく、これにはホッと安堵させられる思いがした。これなら、なんとか剣を遣うのにさしさわりがないようである。  ——だれが肩の傷を治療してくれたのだろう?  そう考え、そしてそのときになって初めて贄塔九郎《にえとうくろう》のことを思い出したのだった。  ——そうだ!  疾風が立ちあがったとき、陽の光をさえぎるようにして、洞窟の入口にたくましい人影が浮かびあがった。  逆光になって、その顔かたちはさだかではなかったが、それがあの贄塔九郎と呼ばれる人物であることは間違いなかった。 「贄塔九郎、そなたが御贄衆の棟梁だという贄塔九郎なのか?」  疾風がそう尋ねるのに、 「傷の痛みはどうだ? できれば、まだあまり無理をせぬほうがいいのだが、残念なことには、おまえには養生をしているだけの余裕がないらしい——」  塔九郎がそう答えた。低く、深い、意外にしみじみとした暖かいものの感じられる声であった。 「養生をしているだけの余裕がない? それはどういうことなのか」  疾風は眉をひそめた。なんとなく不吉な予感めいたものが胸をかすめるのを感じた。 「朝倉家の軍勢がお父上の山城に向かって進軍している。くわしい事情はわかりかねるが、兵馬はそれぞれ戦《いくさ》の装備をかためて、ただごとではないように思われる。おそらくは飯田仁右衛門殿の山城に攻め込むつもりでいるのではないか」 「馬鹿な。それはなにかの間違いだ。そんなことがあるはずがない——」  あまりに思いがけないことをいわれ、疾風は自分の声に怒りがこもるのを覚えた。 「わたしの父は朝倉家の家臣のなかでも、とりわけ深くお屋形様の信任を得ている。よしんば陽が西から昇ることがあろうと、わが父がお屋形様のお怒りを買うようなことがあろうはずがない」 「そんなことがあろうはずがない、か。これまで何人の人間がそういいながら、絶望の淵に追い落とされてきたことか。いまは戦国の世だ。なにが起こってもふしぎはないし、どんなことでも起こりうるのが戦国の世というものではないか」 「なにを馬鹿な……」  疾風はそういいかけ、ふいにその口を閉ざした。  それというのもそのとき、——  わああああ、という、これは明らかにおびただしい軍勢が攻撃をしかけるおたけびの声が、洞窟の外から風が吹き荒れるように聞こえてきたからであった。  疾風は自分の顔が蒼白になるのを感じている。たしかにそのおたけびの声は、父の山城の方角から聞こえてくるようであった。  ——馬鹿な、そんな馬鹿なことがあろうはずがない。  疾風はそんな混乱した思いにみまわれている。  もう贄塔九郎の相手をしているどころではなかった。  ほんとうに父の城が攻められているのか、もしそれがほんとうだとしたら、父は無事でいるのかどうか、いまの疾風はなによりもまずそうしたことを確かめなければならなかった。  疾風は刀を取り、塔九郎に一揖《いちゆう》すると、 「礼はまた後日あらためて——」  そういい残しざま、洞窟を飛び出していった。  馬の鳴き声が聞こえてきた。  疾風の愛馬がそこで彼女が出てくるのを待っていた。  その手綱を取っているのは飛礫である。  いつだれが馬を連れてきてくれたのか、それを確かめているだけの余裕はなかった。いまは一刻もはやく父の山城に駆けつけたい、ただそう気持ちが急《せ》くばかりで、ほかのことはすべてどうでもよかった。  疾風はあざやかな身のこなしで、馬に飛び乗った。  そして、その横腹を蹴ると、そのまま山城に向かって走り去っていった。飛礫も墨染の破れ衣をひるがえすようにし、疾風の後を追っていった。  洞窟から贄塔九郎が出てきた。  しばらく疾風が走り去った森を見つめていたが、やがて野太い声を張りあげた。 「よいか、御贄衆、あの娘をなんとしても死なせてはならぬぞ。なにがあってもあの娘を護るのをおこたるでないぞ——」  心得たり、棟梁……どこからかそう声が聞こえてきて、これは姿もさだかではなく、物音さえも聞こえてはこなかったが、たしかに何人もの人間が森のなかをよぎっていく気配のようなものが感じられた。  あとがき  ようやく�闇の太守�を書きはじめることができました。愛着のある作品なので、なかなか手がつけられないことに、自分でもイライラしていました。いまは�闇の太守�を書き進めることが楽しくてなりません。  以前に、おなじ講談社から�闇の太守�を出させてもらいましたが、あれはいわば枝編であり、むしろこちらのほうが本編と呼んでいい作品です。もちろん以前の作品を読んでいなくても、こちらのほうを読むのには何のさしつかえもありませんし、ぼくとしてはむしろ本書のほうを先に読んでいただきたい、そう考えています。  ぼくは時代伝奇ロマンを書くときには、史実のあいだを縫って、壮大なフィクションをつくりあげることに快感を持っています。まったく史実を無視した作品には、読者としても作者としても、関心が持てません。  もちろん、これはたんに書き手の資質によるもので、決して史実を無視した伝奇ロマンがいけないなどと考えているわけではないのですが。  たとえば、朝倉|義景《よしかげ》の長女がどんな生涯を送ったのか、そのことはいっさい歴史には残されていません。ほかの子供に関しては、比較的、分かっている部分もあるようなのですが、長女だけはどうなったのか、まったく不明なのです。  そこで疾風《はやて》という女剣士をつくりあげる余地が出てくるわけです。  また佐々木小次郎が富田勢源《とだせいげん》の弟子だという説が昔からあるようなのですが、そう考えると、どうしても小次郎の年齢があわなくなります。もし小次郎が富田勢源の弟子であるとすれば、慶長十七年(一六一二)の巌流島での決闘のときには、六十代も後半ということになってしまいます。  吉川英治の�宮本武蔵�では、小次郎は美青年ということになっていて、もともとこれもフィクションなのですから、なにも気にすることはないようなものですが、やはりなんとなく気持ちが悪い。  そこで富田勢源にも、小次郎という名前の若い剣士がいて、これが後世、佐々木小次郎と混同されるようになった。そんなふうに考えて、ここに秋月小次郎が誕生する、まあ、そんなような具合です。  どちらかというと、作者ひとりで楽しんでいるような気がしないでもないのですが、こうしたところに時代伝奇ロマンを書く楽しみがある、ぼくはそう考えているのです。  この�闇の太守�は全部で四冊、ないし五冊の長編にするつもりです。毎年、秋にはかならず出版するように、覚悟を決めていますので、どうか末長くおつきあいをお願いします。  一九八七年九月二十五日 山田正紀 この作品は一九八七年十一月、講談社ノベルスとして刊行され、一九九三年八月、講談社文庫として刊行されました。